2023年1月19日

勇者の勧懲劇

死んだ方がいいほど邪悪な振舞いをしていた者が繁殖している――またそれを祝ってすらいるのをみると、ヒトという生物が少子化後絶滅するのは正しいと気づける。彼らは道徳機能が十分進化しない脳と文化で生き、偽りの幸福を語る。反出生主義の根本にあるのは科学的事実の洞察で、唯の冷酷な真理である。ヒトが多少でも道徳性、利他性一般を育てたのは、少数の人々の間でこの行動系列が助け合いの役に立ったからだ。相互扶助が公益を増したので文明と称する集団では道徳性の向上が期待される筈だった。だが現実は正反対になっている――少なくとも、主観的にはそう感じられる。資料は当の主観を否定するが。成程少数例をみる限り、ヒトに絶望するだろう。実に巨悪な存在が性欲で殖えているのを見るからだ。ウェブは人々を繋げ、その種の例外を拡張表示する。
 ウェブを見なければ気持ちとして救われるものの、文明は人々の結びつきも促すので、常に苦痛を託つしかない――不即不離で呉越同舟の勧善懲悪劇に。

 イエスが処刑されるのを見て、まだ気づかないか? ソクラテスや徳川慶喜がなぜ偽りの罪を着せられたのか? ガリレオは小保方晴子と何が違うのか? 松平容保は岩倉具視より遥かに忠義だったのだが、それを知っているのは孝明天皇だけか? ヒトには悪性が紛れていると知っていれば彼らは救われたか?
 パウロは言った。イエスはヒトの罪をあがなったのだと。完全な嘘である。単にヒトの罪を着せられたのだ。イスカリオテのユダだけが裏切ったのではない。他の11人の弟子らもそうだったではないか。衆愚も、ユダヤ教徒らも同類だった。イエスは救うべきでない生物を救おうとし、磔になった。当然の様に。

 縄文人達は遺伝的お人よしだったのだろう。十数万年の平和な時代は、極東に見つかった理想郷だった。だが当たり前の如く壊された。やってきた弥生人らは悪性で、撲殺跡ばかり出てくる。その親玉が皇帝擬きに偽装しだしたのも理の当然であった。悪性には利己主義しかない。人種差別教もその卑怯な手だ。東京に現れた邪教祖は侵略犯に連れてこられた。彼らは蛮行の限りを尽くし、2つの爆弾で消し飛んだ。邪教祖はいつもの如く悪魔の契約を持ちかけた。「世界の半分をやろう」と竜王に言われ勇者が「はい」を選び、ゲームオーバーになるパターンに、あのマッカーサー将軍も陥った――魔性を無垢と誤解して。

 ウェブから学べる最大の事は、悪魔達の生態である。どれほど読んだとしても最悪の光景ばかりが広がり続けるので、この巨大な文学作品は生涯読み込んだとしても、絶望的以外結論が出ない。

 だからといって全く戦わないでいれば彼らヒトにのまれ、更なる地獄だけが広がるので、この命は覚悟の上だ。