モギケンや東浩紀や落合陽一が「タイム・パフォーマンス time performance」(時間対効率、時間効率、タイパ)をよくないとかヤバイとか言っていた。
彼らは「時は金なり」の諺を忘れたらしい。さもなくば、情報疲れで焦ったのか、人生が有限だと示すmemento mori(メメント・モリ。死を想え)の格言すら忘れているのだろう。命短し恋せよ乙女で人は生きてきた。
勿論、効率に還元されない何らかの命の時はあるだろう。それが心のゆとりで、限りある生の蜜の味わいだとしても、なお、無限に間延びし、超非効率であったなら、永遠に生きる神々にしか体感できない。小さな子供にとってスーパーのお菓子の棚が宝の山で、道端の石ころが遊び道具であった時は過ぎる様に――子供の比喩の補足。つまりこれは、不死かもしれない神々と違って有限の命というものはどの一瞬一瞬も実は変わりつつ失われゆくもので、とても貴重だという例えだが。
恐らく彼らは資本主義が時間泥棒な事に、ミヒャエル・エンデもしくは彼の『モモ』式に反抗したいのだろう。だがそれは効率を否定してよい事と同値ではない。
我々は現に芸術の様な必ずしも金にならない虚業で、時間泥棒勢――資本家と経営者、そして納税奴隷を貪るラスボス天皇一味と戦ってきたのだ。
もし時間効率を無視して国際社会に直面すれば、あっという間に資本主義勢に略奪され、滅び去ってしまうだろう。あのラスボス天皇一味も、見栄っ張りの贅沢代を失いたくないので、別の納税奴隷を探すため、怠け者だらけで荒廃した世界をさすらう羽目に陥るだろう。その方がずっといいのかもしれないが。
結局こういう事だ。
時間効率は我らの生の全体で、全く軽視できない。だが時給式の経済至上主義を目的とする限り、肝心の命の時を失ってしまう。ゆえ我らは限りある命の時になるだけ密度の濃い経験をつめこまねばならない。
全力で、しかも何もわからず生きるしかない青春の時がさもそうである様に。