2023年1月26日

力、法、良識、信仰による治安行政

後天設計に基づく倫理の価値を全く軽侮ばかりする連中がはびこった領域は、単に幸せな社会を作るのに向かない。
 賠償金踏み倒しひろゆき一味や、その追従者モギケン一派が良識を殆ど重んじないのは、彼らが他者に害があっても自らに累が及ばない限り私利を追求したがる反社会的人格の持ち主だからだ。
 倫理の価値が尊ばれる領域は、害他的利己心を制限している。それは人の外からのとき法や力で、人の内からのとき良識や信仰で。
 倫理の価値を卑しんでいる人々は、法や力を悪用しがちである。また良識を侮り、信仰を馬鹿にする。これらのせいでときに利己心を満たせないからだ。不徳な人は獣性に近い。後天設計が失敗した社会では、ゲームバランスが悪くなるので人々が自死、不登校や引きこもりなど、離脱や逃げ、その他の逸脱を択びやすくなる。不徳な人々は害他的でも私利を追求するので、遂には行いの公害度が高まっていく。学級崩壊やスラムの姿がそれである。荒廃した国で犯罪率が高まるのも同じだ。

 ひろゆき一味・モギケン一派など、私利追求の為の害他的利己心から、時に憎悪扇動や無法行為に走るなど、反社会的タチの人々へ、我々一般人類はどう対処すべきか?
 通常そんな類型を、日常語で「不良」と呼ぶ。不良へは法、力、倫理、信仰のうち、法と力しか効き目はない。力なき法も余り通じない。

 厳密には、おもに
「力」と「力ある法」
にしか、不良へ効き目はない。良識・信仰といった道徳性は、思いやり深い性善的な優等生には極めて有効だが、道徳の劣等生である不良には、知能面でまずわからないからだ。不良の一部が反社会人格を受け入れる場合もあるが、そうでない時、巷間を闊歩している。

 良識は互いに協力関係を結ぶのに役立つ。生まれよく徳性を持つ人々はいるので、彼らが手を組めば不良へ対処しやすくなる。しかも徳性が高ければ私利で釣らなくとも、単なる義務心から大変な侍業をしてくれる事も多い。一部の偽装者は見栄の為そうするが、偽善であっても普通、しないよりはましだろう。
 信仰は根源的に、縁なき人々を結ぶ最も強い絆になるだろう。この絆は心のうち深くに起源があり、互いに共有できるある理想に基づく。よって信仰が同じ時、人はどれほど困難でも自然に助け合うだろう。
「力」と「法」は通常、性悪らへの対処策だが、「力なき法」はうち理知的な人にしか意味をなさない。
「力」は性悪含む万人に少なからず効き目があるが、ときに自由の制限やなんらかの物理被害を伴うので、良識、信仰、法で十分動かせる人にわざわざ使うべきではない。
「力ある法」は悪知恵の働く不良へ対処するに最重要な武器で、その潜在的強制力や抑止力は、彼らが恐れを感じるにおよそ十分である。

 モギケン一派はひろゆき一味の弁護者である。それはおもにモギケンが側近政治風に現実の友を優遇するせいだが、同時に、法の抜け道を英知とたやすく誤認するほど、良心の異常に欠如した頭脳でもあるからだ。よって基本対策は「力ある法」でのモギケン一派の行動規制にある。国税庁強制調査に彼は従った。モギケンは飽くまで東大法学士で多少なりとも法的理解力があるかもしれず、法的教導でも、無法行為による名門学閥への冒涜から予期される、多大な社会的制裁の苦痛を顧みるかもしれない事に留意せよ。
 また、親玉ひろゆき一味は、賠償責任逃れなどで明らかなよう、「力なき法」にまず従わないのは明らかだ。ひろゆき篭絡には「力ある法」で動かし、「力」で捕縛。過去の横顔から明らかな通り彼は私利中心に動く反社会人格で、自身の私利を失うと認識させればある向きに動かせる。その向きが、公害度が低い向きなら彼は私利の為そうする。反前澤友作氏を気取る論破王の見栄でPCを福祉施設に配るなどがその例だ。

 ひろゆき一味、モギケン一派、いづれも、モブは単に教祖の発信にたかって相互協力関係など陸にない。それも彼らがモブだからだが、信者間交流ではなく、教祖とのつながりに或る種の偶像崇拝心を満足させているのである。
 ゆえ信者層はモブとみなし、完全無視してよい。教祖が善業しても信者は信者だ。

 最終局面では、モギケン一味が「力ある法」的に制御されてから、ひろゆき一派の大暴れに「力」で対処しかないだろう。というのも、ひろゆきの目的は唯の私利追求による愉快犯で、モギケンのそれはお友達の公害アクロバティック擁護による偽善ぶりとマッドな脳への科学者としての研究欲の両立だからだ。