2022年12月29日

聖なる国の作り方

きのうも書こうとしたが、この国で生きるという事は、何かしら圧迫を受け、いつしぬのか? と追いつめられている様な感じを受ける。
 人によっては実際にそういう雰囲気で接してくる人もいる。アメーバピグにいたミューデなる人と話してると、時々そういう焦りの感じが伝わってくる。当人にも言った。
 その焦り感、焦燥感は、まちがいなくこの国民性の重大な病から生まれているのだろう。この国民はミューデという人に限らず一般に、とにかく他人を他人としてありのまま受け入れる事ができない。大半のやつが他人を上か下か気にしながら接していて、常に上皇未満の差別の構図にあてはめようとしてくる。それで学歴差別というやつが戦後は便利に使われているらしい。但し一般的な俗人の間でにすぎないし、その圧迫感は都心部に近づくほど強大になる。当然だが、この種の身分は官僚制度の便宜の為に作られたもので人事管理を合理化する為の手段だったが、中央政権周辺の人々はその風習で毒されているのだ。

 似た様な位階を、地域単位であてはめ安心しきっている愚物も大勢この国には生きている。そんな差別的偏見が何の役に立つわけでもないが、令制国を作った時も延喜式で同様の構図を設けていた事を顧みると、関西人の相当数が地域差別を常道と思っているのは古代からの悪習なのだろう。東京もそれをまねた。脳のできがその程度なのだから、少なくとも関西や東京圏の国民性は今後とも大幅に変わらないのだろう。自分は首都圏、関東でも北部で生まれたので、都内に暮らしていた事があったとはいえ、そんな都民や関西人の悪習を客観視できた。
「地方」とか「田舎」という語彙が差別的意味なのは日本だけだった。
 愚民を洗脳し、宗教政治で楽をして世襲の独裁体制を築いた天皇一味は、中華思想をもってきて関西地方で皇帝を演じ始めた時、余りに巧く関西人を治められたのでその効果に驚いたろう。いまだに、彼らが皇帝制度に異様な執着心をみせるのは思考停止し絶対的父権を崇める形式が脳の程度にあっているからだ。

 エジプト王やローマ皇帝の末裔達は、既に滅び去った都市を振り返って、一時の栄華が空しいと知っている。奈良で平城京があった地域をみたら自分も同じ様に感じた。大和郡山市の国見山はかつて仁徳天皇がのぼった小山だが誰一人顧みる者はなく、自分が一人でのぼって国見してみたが、唯の雑木林だった。
 京都は潰えつつある。普段から京都市民らと接しているとそうなる必然がある、と悟れる。彼らは自分達が自明に首都だと驕り、かつ信じきっているが、しくみが巧く行っておらず、どうみても関東の諸都市より規模が小さい上に勢いが完全になく、仏教勢力や学生に寄生されている。贅沢に慣れた公家の没落。

 資本主義は圧迫感を与える競争原理で人々を相互に煽って、消費合戦にまきこんでいるので、確かに焦りを生じさせる一つの原因になっているのだろう。グーグルニュースをみているととかく新製品だのの購買を促す広告で埋められ、記事自体も視聴回数をふやす為の記事だし、都内の電車の中みたく煩く汚い。自分には東京は殆ど地獄にしか感じられなかった。その一因に、あの電車内の光景がある。大概満員で苦痛極まり異常な緊張を強いてくるだけでなく、ビカビカとしぬほど汚い色味の下品な広告でそこら中が埋められており、そこで人々が平気で生きてられるのが自分には信じられなかった。審美感が死んでいる。この間、リヒター展をみるためやむを得ず再び都内の方々を通ってみたが、やはり状況は全く変わっていなかった。
 5ちゃんねらーにせよツイッター民にせよ、テレビ民にせよネット民にせよ、日本語圏の人間というのは僕とは全然違う。なぜあんなに汚い都内がいいと思うのか全く不明で感覚が違いすぎる。「地獄みたいだね」と言い合いくらしてるならまだわかる。事実そうだ。だが、日本人というのか東京圏の人々はネットやテレビでみると一般にその逆らしく、現実には苦しそうな顔で死んだ魚の目で満員電車に乗り地下道を歩くのに、なぜか匿名になると自慢ばかりしている。地獄の不都合さを隠して嘘をつく。嘘をつくのがそんなに好きな国民性だと安倍晋三が証明した。118回以上も確実に国会で嘘をついた首相が最長の在位日数だったという事は、この国の本質を示す。擬制、虚構、作り事、嘘で、何もかもぬりかためたいのだ。民衆が何度嘘をつき、軍部統帥権をもつ昭和天皇の戦争責任をごまかしたか分からない。
 善いものを悪く、悪いものをよく言う。自分がみてきたアベコベばかりな日本人達の日常だ。これは日本人論としてはっきり言っておくべきだ。後世の為、必ず参考になる。
 自分は涙が出るほど美しい光景を茨城県で何度もみたが、日本人は東京人マスコミに煽られ、何度も嘘ばかりつき最低だといっていた。だから日本人の間で崇め奉られている者は悪の権化であり、今でいうなら大量の匿名犯罪被害者をうみだして賠償金を数十億円踏み倒し、外国でも4chanなる憎悪をはぐくむ地獄の中の地獄みたいなサイトを金儲け目的に運営するひろゆき一味である。
 一つ言えるのはこうだから悪の枢軸扱いされたのである。

 自分は日本国を、政府だけでなく民衆すら何も信じてない。彼らの普段の行いが悪すぎるのだから。自分は家系図みると先祖が江戸時代以前からいる地元人なのが確かだけど、何もかも他人の国が日本だと思っているし、現にそうだ。そこでは長州閥みたいな赤色テロ侵略犯がわが物顔してて、とても居心地悪い。ツイッターなどで絡んでくる人々も全員別の生物といえるくらい意味不明にしかみえず、何か同じ人の心を持ち合わせているとは感じられない。以前からそうだった。今ではもうそんな状態に慣れた。この国が滅び去っても「当然だよな」と感じ、寧ろ歓喜するだろう。そこは匿名犯罪集団が初期設定だったから。
 焦燥感を与えてくる民衆の間にいて一秒でも安らげた試しがない。天皇一味は関西から鳴り物入りで出てきたが口だけ形だけの極道者だった。徳川慶喜は水戸で善良に育ちすぎたのだ。彼が信じていた母方の実家は、関西で腐りきった外道のやくざで戦乱ばかりもたらし、遂には潰れていくだろう。自業自得で。
 この国は他人から搾取する目的で動いている様なもので、他人を傷つけ、陥れ、冤罪裁判を集団で事情通でおこなって、陰険なイジメを意地悪にするのが目的の様なものだ。だって普段からツイッターだろうが2ちゃんだろうがそんな事しかしてこなかったし、今では子供の学校すらそんな地獄じみているのだ。徳川家がみずからの江戸城を関西の豪族あがり天皇一味に譲ってからというもの、凄まじい戦乱続きで最悪だった。戦後やっと平和になったのは天皇一味が法に従う姿勢だったからだが、明仁がルール違反をしだし、立法権を行使。これでまたガタガタになりだし、もう政府は軍国化するつもりでいる。終わった。民衆は次の身分差別の為の手段を探す。順位づけを無理やりして、他人が自分より上か下か確定できないと不安で仕方がないのだろう。
 人を人としてただそのまま受け入れ、尊重する、人として当たり前の事が少しもできない。関西で天皇専制政治に慣れたモブが東京に出てきても相変わらずだ。実に醜い。だから、国が崩壊している事を何かしら悲しんでいる様にみえる人々の気持ちも、よくわからない。彼らは、もともと成績が悪い様な人々で、学級も荒らしていたのではないか? そんな連中は確かにいた。彼らがなぜ授業を荒らすのか自分には理解不能だったが、大人になっても彼らは日頃そうしているのだ。安倍晋三一味は、小泉親子一味が新自由主義政策で荒らしだした国を、更なる倫理崩壊に追い込んだ。それはそれは現場でみていたが酷かった。不良の頭というのは生涯変わらないものらしく、そもそも憲法を読んでいるのか怪しい理解力で、不良グループを作って彼ら薩長閥の末裔は国会を荒らし回っていた。国を亡ぼしたのがまた薩長閥の系統だったのはなかなか興味深い。王政復古クーデターをはかって徳川家を朝敵冤罪に追い詰めた彼らは、政権奪還のため会津の民衆まで犠牲にする悪意に満ちた天皇家と共に、国内外を荒らし回ってきた。フィリピンの慰安婦像まで自民党ぐるみで表現弾圧したのは記憶に新しい。不良は悪事の為なら悪知恵が働くものだ。悪意ある謀略なら幾らでも思いつくのだろう。それで善人を追放し、悪い国を作る。そこは彼らには適所らしく、大喜びで、自分たち元勲の銅像を建てるのだ。自分達をお札の顔にして鼻高々、やる事といえば百人斬り競争の自慢などである。実に悪辣で始末に負えない。広島からでてきた岸田文雄は、幕末西軍で侵略犯罪を正当化した自治体から東日本へ出張にきているのであるが、福島原発の後始末もそこそこに汚染水を現地におしつけながら、東日本をまきこんで原発の再稼働や新設、老朽原発の無限運転を主導している。悪魔と言っても、薩長勢に比べ分かり易い悪魔である。所詮そんなのなのだ。西日本の民度は。過去もそうだったし、今後もそうだろう。彼らは通例東日本側に迷惑をまきちらし、それを自慢に帰る。征東大将軍とか抜かしていた時代から変わりないし、場合によっては差別的言動を残したりもする。復興担当相・松本龍を憶えているか? とかく彼らには公徳がない。

 だからこういえるだろう。我々は暴力を振るう者、差別してくる者を少しも信じてはいけない。西日本から出てきた彼ら侵略犯がいつもやる事といえばそれらだった。横暴を働けば弱い者は従うと信じているからそんな蛮行をする。
 モギケンが反道徳で暴れ回るのは、根底に有る価値観が九州式だからである。
 徳の高い民衆を、暴力団は仕切れない。徹底抗戦で追放される。北九州や神戸では何とかなったかもしれない。だが茨城では自分がいて無理だ。
 天皇一味は、東アジアなら何とか抑えつけられたかもしれない。だが欧米や中国相手は無理だった。
 米軍はベトナムを、英国はインドを抑えつけられなかった。
 モギケンだの安倍晋三だの岸田文雄だの天皇一味だの、幕末西軍に与した地域から出てきた西日本勢一般は、勝てば官軍と信じている。米軍が潰してきたから、負けて後悔しているのだと。道徳的反省など無用だと。
 彼らは大切な事を見逃している。彼らは野蛮人だ。飽くまで戦うのは正義であり力ではない。どれほど強大な力だろうが、それが日本人民衆全体だろうが、或いは全人類だろうが、もしくは宇宙人全体だろうが、ひとたび正義が認識されれば、千万人と雖も吾往かんと孟子が言うよう、私は勇猛果敢に戦うだろう。
 力で負けてしまえば大人しくしているのは唯の野蛮人にすぎず、文明の目的を知らない。圧迫感や焦燥感を与えてくるのがもし不正義の力だとして、それを完全にはねのけ、儒学風にいえば「浩然の気」、天地俯仰にじぬ清々しい気持ちを取り戻すのが、今我々に与えられている課題だろう。すなわち正義をとりもどさねばならない。公然と、政治の場で。あるいは日常生活のひとコマひとコマで。侍は去った。彼らは民族の栄光だったが、今となっては国民の命を犠牲に五輪サッカーをやりたがる偽物が跋扈し偽装するばかりである。勿論、戦犯吉田麻也の事だ――幾らワールドカップで凡ミスろうが、それ以前に彼は、彼のせいで負けている。なぜなら、サッカーという競戯は人殺し目的ではないからだ。
 不正を一つ残らず追放した国は、厳格主義の元で生きづらいというだろう。なんでも放任主義で、適当でいいのだと。本当にそうだろうか? もしそうなら今が理想郷の筈だ。安倍晋三だろうが上皇明仁だろうがひろゆきだろうが無法者で有名であり、挙句の果てに成田悠輔なんか高齢者抹殺論まで唱えている。それとも中道があるのだろうか? もしそうなら、厳格すぎも放任すぎもしない、寛大主義が理想状態なのかもしれないが、その国は俗人を容れる余地はあっても、聖なる国ではない。
 厳格主義が貫かれた国にあっては、全徳目が尊重される。私はそういう聖なる国に行きたい。そこで神の如く生きるのだ。
 私の理想は、小さな国にあっては必ずや実現可能だと思う。ブータンなる小さな国がめざしている境地も恐らく類似だろう。日本の単位では無理かもしれない。すぐ嫌味いう京都人一般、すぐ下品な淫行する東京人一般、すぐおもろないと愚行あおる大阪人一般が聖なる国でなんて生きられるとは思えないからだ。しかし自分が完全に息をつけ、誰に会っても必ず安心してつきあえ、どこに行っても必ず温かく出迎えられ、親も子も互いを最大に思いやりあい、街中で大人も子供もみごとな善行を当たり前にしており、尊敬するしかない善政が日々進行していき次々世界がよくなっている実感を持てるのは、聖なる国でだろう。
 俗でなければ栄えないのだ、と人はいうかもしれない。水清ければ魚棲まず、米中印みたく雑な方が武器を買うカネがたまり、結局は侵略に成功するのだと。あらゆる正義が貫かれてようが爆弾一つにすら勝てないのではないかと。
 自分はそうは思わない。聖なる民衆は優れた聖人にしか指導できないからだ。まず自分が最高徳に一致して生きるべきだ。修身・斉家・治国・平天下と儒者が述べていた様、自分一人すら立派におさめられなければ天下を取ってもろくな世にならない。
 そして大勢の民衆も最高徳と一致して生きる様になれば、そこは必ず聖人にしか支配できなくなるだろう。聖なる国の素は自分にある。