本物の下衆――たとえば南関人一般の中では、自然というものは無い事になっている。彼らは大都会・商業地で生まれ育ち、その外には関心をもたず、もったとしても消費対象としてのみで、一生を他人から金をむさぼる目的で生きる。彼らの心は端から死んでおり、一生いのちへ深い共感の念をもつ事ができない。自然の中で他の生物と共に生きた事がないからだ。そればかりか純粋商業地の風習に心の髄まで汚染されていて、彼らは少しですら他者への共感の念をも欠いており、利他の感情が死んでいる。人という人をみて悉くもしくは根っから敵と思い、善良な他者とみれば卑劣な手で陥れ、自分達搾取を生きがいとする商人と似た悪辣な人間へは意地汚くこびへつらい、ひたすら他者全般を道具として扱おうとばかりしている。いうまでもないが当人達もその様な道具的存在に留まる。同類相集まるのだからだ。このため、彼らはおよそ例外なしに全員が結局まったく幸福になりえない。無論事実として、幸福にはまったく値しない人々なのだから当然でもある。
カントの定義した定言命法から最も遠い人々が、南関東こと東京圏、あるいは関西圏や名古屋圏といった三大都市圏に確かに生きている事がみてとれる。彼らは根源的に不幸であり、また天皇一味ふくめ仕事柄道徳的義務に反する存在集団なので、文明の名にあたいしないのはいうまでもないだろう。
神道の華夷秩序に基づく差別的教義や単なる群れによる疑似的安心感にもとづく虚栄心では全世界に類を見ない事は確実な、南関人一般のごとき特徴をさらに千年近く中華思想で固めつづけると関西人、ことに京都市上京区民一般の如く、より邪悪な類型に陥るのだ。中部人らは両都市圏に囲まれ、両者をしばしば模範と仰ぐおろかさのため、彼らより自堕落な中間形態である。
彼らのたぐいの下衆さを極めると捏造した女神アマテラスの末裔などとうそぶきつつ司馬遷『史記』の司馬貞による唐代追記部にみえる天皇などという空想上の神格を僭称、全国民あるいは全世界の全生物からの暴力による収奪をただの卑しい贅沢目的で生業としだし、その種の邪教祖のまがまがしい地位を世襲化さえしだしている。天皇一味の末路が世界最悪のものであっても誰も疑問には思わないだろう。天皇一味は単なる野心からきた人種・門地・地域・文化・身分・門地・国籍その他の差別に基づく大量虐殺犯として世界中のすべての良心に恥を売っているばかりか、その固有の罪業のほどでは天地のすべてを覆うまでなのだからだ。勇者の手になり真っ先に亡ぶべき邪教の大魔王と呼ぶにふさわしいだけの悪魔は全世界でも、東京の中枢部で親族の徳川家の本宅に西軍暴力団と共にあがりこむや、大金の徳川家財のみならず、国税や周辺諸国から強盗や少なくともGHQ側に調査された史実としてしられているところ第二次大戦中の財産隠しまでしまくり、大量殺人やあらゆる形の人権侵害と利己的な無法行為を暴力・権力・無言の圧力での脅し・洗脳および強制力で押しつけふくむ、すさまじい大蛮行中の天皇一味のみにあてはまるだろう。