2021年9月7日

水戸学を誤読かつ悪解釈している池田信夫ブログの内容について

池田信夫氏(以下敬称略)は水戸学を陸に理解していない。又は先入観から否定的評価を与えようとするあまり、単なる自説を(他者の目には水戸学派へのかなりの悪意、即ち害意か事情通から)組み込んで歴史を解釈しようとし、全く異なった彼個人の思想と取り違えている。 

 池田は水戸学を自民族中心主義だと書いたが、水戸学は前期から既に中国はじめ諸外国との関係で自国を定義しているので、自民族中心主義的ではない。寧ろ文化相対主義的である。義公の史学は朱舜水との議論を経て、日本の各政府が中華思想をとる各中国政府に比べ、どんな歴史を経て、またそれに応じどんな国柄をもっているか、両者の違いを比較文化論的に考察するものだった。

 或いはまた池田は水戸学を恐怖主義(テロリズム)だと幾度も書いたが、後期水戸学を担った烈公・慶喜公ら水戸徳川家側は弘道館で主だった諸生党と共に急進的な攘夷左派(のちの天狗党ら)を常に抑え込んでいるので、明らかに誤りである。
 池田は水戸学そのものと、松陰の思想を多かれ少なかれ取り違えている。
『弘道館記』等で示されるよう、水戸学そのものには恐怖主義の様な要素は一切入っておらず、儒学を国風化した忠孝道徳を、国土防衛および徳政論で覆ったものである。
 一方、確かに松陰は老中暗殺計画をおこなったり、書簡に於ける草莽崛起論などで恐怖主義的言動をしていた。

 例えば池田の悪意を証明しているのは以下引用部にて、池田は「慶喜は大政奉還で幕府を延命させようとした」と書いたが慶喜は『昔夢会筆記』で「家康は日本の為に幕府を開き将軍職に就いたが、自分は日本のため幕府を葬るの任に当たるべきである」と表明してから将軍職に就いた為(渋沢栄一編『昔夢会筆記』「将軍職を襲ぎ給いし事」東洋文庫、1966年)、池田の上記記述は明らかに池田による事実誤認であり、また池田個人の意見に過ぎない。そしてこの意見は、水戸の徳川家の家訓「われら(水戸の徳川家)は、徳川本家と戦っても朝廷に弓を引く事はあるべきですらない」に従って、錦旗の前でみずからの相続した江戸城を主家であった天皇へ進んで譲った慶喜を名誉毀損するものといえるだろう(渋沢栄一編 『徳川慶喜公伝』四巻、逸事。 平凡社東洋文庫 全4巻、1976-78年、以下現代語訳で引用)。

水戸学の最大の影響は、水戸家出身の徳川慶喜が「大政奉還」という形で政権を投げ出したことかもしれない。これは代々「日本の国は天皇のものだ」という教育を受けてきた慶喜が天皇に名目的な権威を奉還するという形で幕府の延命をはかったものだが、薩長は幕府と徹底抗戦した。
――池田信夫blog『「皇国史観」という近代的フィクション』

(現代語訳)
 明治34年の頃、筆者こと男爵・渋沢栄一が、おもいがけず、伊藤博文公爵と大磯から帰る汽車の中で、伊藤公は私へ語りはじめました。
 
伊藤公いわく――
 「渋沢さんはいつも徳川慶喜公を誉めたたえていらっしゃいますが、私は、心にはそうはいっても大名でも鏘々そうそうたる一人くらいに思っておりましたが、今にしてはじめて慶喜公が非凡の人と知りました」
 
 伊藤公は、なかなか人を信用し認めないかたなのに、いまそんな話をされるのは、なぜですか? と、さらにおして、たずねましたところ、

伊藤公いわく――
おとといの夜なんですが、有栖川宮家で、スペイン王族のかたを迎えて晩餐会がありまして、慶喜公も、わたし伊藤も客に招かれました。
 宴会が終わってお客さまがたが帰られたあとで、わたしは慶喜公へ、試しに「維新のはじめにあなたが尊王の大義を重んじられたのは、どんな動機から出たものだったんですか?」とたずねてみたところ、慶喜公は迷惑そうにこう答えられました。

慶喜公いわく――
「それはあらたまってのおたずねながら、わたくしはなにかを見聞きしたわけではなくて、ただしつけを守ったに過ぎません。
 ご承知のよう、水戸は義公の時代から、尊王の大義に心をとめてまいりました。
 父も同じ志で、普段の教えも、われらは三家三卿の一つとして、おおやけのまつりごとを助けるべきなのはいうまでもないが、今後、朝廷と徳川本家との間でなにごとかが起きて、弓矢を引く事態になるかどうかもはかりがたい。そんな場合、われらはどんな状況にいたっても朝廷をたてまつって、朝廷に向け弓を引くことはあるべきですらない。これは義公以来、代々わが家に受け継がれてきた家訓、絶対に忘れてはいけない、万が一のためさとしておく、と教えられました。
 けれども、幼いときは深い分別もありませんでしたが、はたちになり、小石川の屋敷に参りましたとき、父が姿勢を正して、いまや時勢が変わり続けている、このゆくすえ、世の中がどうなりゆくかこころもとない、お前も成人になったんだから、よくよく父祖の家訓を忘れるでないぞ、と申されました。
 この言葉がいつも心に刻まれていましたので、ただそれに従ったまでです」

伊藤公いわく――
 いかにも奥ゆかしい答えではありませんか。慶喜公は果たして、並みの人ではありません、と。

 筆者・渋沢はのちに慶喜公にお目にかかったついでに、この伊藤公の言葉を挙げておたずねもうしあげたところ、慶喜公は「なるほど、そんなこともあったね」と、うなずかれていらっしゃいました。

原文
 明治三十四年の頃にや、著者栄一大磯より帰る時、ふと伊藤公(博文)と汽車に同乗せることあり、公爵余に語りて、「足下は常によく慶喜公を称讃せるが、余は心に、さはいへど、大名中の鏘々たる者くらゐならんとのみ思ひ居たるに、今にして始めて其非几なるを知れり」といひき。伊藤公は容易に人に許さざる者なるに、今此言ありければ、「そは何故ぞ」と推して問へるに、「一昨夜有栖川宮にて、西班牙国の王族を饗応せられ、慶喜公も余も其相客に招かれたるが、客散じて後、余は公に向ひて、維新の初に公が尊王の大義を重んぜられしは、如何なる動機に出で給ひしかと問ひ試みたり、公は迷惑さうに答へけらく、そは改まりての御尋ながら、余は何の見聞きたる事も候はず、唯庭訓を守りしに過ぎず、御承知の如く、水戸は義公以来尊王の大義に心を留めたれば、父なる人も同様の志にて、常々論さるるやう、我等は三家・三卿の一として、公儀を輔翼すべきはいふにも及ばざる事ながら、此後朝廷と本家との間に何事の起りて、弓矢に及ぶやうの儀あらんも計り難し、斯かる際に、我等にありては、如何なる仕儀に至らんとも、朝廷に対し奉りて弓引くことあるべくもあらず、こは義公以来の遺訓なれば、ゆめゆめ忘るること勿れ、萬一の為に諭し置くなりと教へられき、されど幼少の中には深き分別もなかりしが、齢二十に及びし時、小石川の邸に罷出でしに、父は容を改めて、今や時勢は変化常なし、此末如何に成り行くらん心ともなし、御身は丁年にも達したれば、よくよく父祖の遺訓を忘るべからずといはれき、此言常に心に銘したれば、唯それに従ひたるのみなりと申されき、如何に奥ゆかしき答ならずや、公は果して常人にあらざりけり」といへり。余は後に公に謁したり序に、此伊藤公の言を挙げて問ひ申しゝに、「成程さる事もありしよ」とて頷かせ給ひぬ。
――渋沢栄一『徳川慶喜公伝』第4巻、逸事、父祖の遺訓遵守

参考ページ

http://komonsan.on.arena.ne.jp/htm/yosinobu.htm

http://www.komonsan.jp/kura/cat24/5_9.html(リンク切れ)(アーカイブ。『徳川慶喜公――その歴史上の功績――』宮田正彦・茨城県立太田第二高等学校長「大政奉還と王政復古」、平成9年度水戸学講座講録、平成9年12月7日講座、常盤神社社務所)

 池田が書く「藤田東湖が『詩経』の維新の語を誤解した」という表現も誤りであろう。東湖ら後期水戸学者のなかでは周王室擁護に関する会盟の文脈を、外敵に囲まれ諸大名に団結が必要な幕末の状況に援用して同語彙「尊王攘夷」論を奉じていたのが明らかだからである。これについては池田が詩や思想史に浅学過ぎるだけだろう。池田は以下のよう別の箇所で尊攘論と排外主義は違うと見分けているので、要するに藤田が会盟策を援用した、水戸学者らによる本歌とりの文脈そのものを知らないとみえる。
(以下引用部で池田は、豊田天功『防海新策』のとおり、主権独立を維持する為の手段的な開放貿易下での富国強兵論というべき開港論を含む後期水戸学と、さも符合している理解をしているかの様に見える)

尊王攘夷は、よく誤解されているように排外主義ではない。それは列強の侵略にそなえて国家を統一しようとするもので、対外的な通商を拒否したわけではない。
――池田信夫blog『「橋下維新」と尊王攘夷』

しかし一方で池田は「時代錯誤の排外主義」と尊攘論を述べている箇所もあり、彼のなかで定義が曖昧か、二重基準で混乱しているのだろうか。現実の尊攘論には、条約勅許を得ての開港・近代化を目指す慶喜ら穏健派の論理と、欧米列強との即時断交を目指す藤田小四郎ら急進派の論理との、両面があった。
 松陰は水戸への遊学(会沢らとの会談。嘉永4年(1851年)、松陰『東北遊日記』)を経て尊攘論を少なくとも表面習い、のちペリーの黒船への密航を企てた一方で、幕政改革、武力倒幕、反天ゲリラ(「天朝も要らぬ」「草莽崛起」の志士)による無政府恐怖主義という思想的変遷を経た。こうして松陰は水戸学派や常陸国界隈の尊攘派には「真の益友」との評を与えつつ水戸学そのものとは別の立場の急進的極左思想をもっていた(松陰『幽囚録』や安政6年4月7日 北山安世宛て書簡、安政6年4月14日 野村和作宛書簡、安政6年2月27日・要駕策主意・上・己未文稿)。
 また以下の記述で池田は「陽明学」が水戸学を経由した、と述べているが、自分のしるかぎり、水戸学と陽明学にどの様な接点があったのか、その証拠を知らない。おそらくこれは漢学の詳細を知らない、池田の勝手な妄想だろう。

中国では主流にならなかった陽明学が、日本ではこうした「古層」と共鳴して流行し、水戸学を経由して吉田松陰の尊王攘夷思想になった。その思想的な実体は時代錯誤の排外主義だったが、真の「天子」は天皇であり、その秩序を「復古」するためには老中の暗殺も辞さないという政治的ロマン主義で、長州藩士に強くアピールした。
――池田信夫blog『近代日本の陽明学』

 池田はこうも書く。

会沢正志斎の『新論』は「神州は太陽の出づる所」で、その太陽神の子孫が統治する国体は永遠に変わらないという誇大妄想で始まる。
――池田信夫blog『国体論はなぜ生まれたか』
要するに会沢はここで神道を引用しているに過ぎないが、池田はその神道思想の根本原理、アマテラス以来の統治という、中古代の奈良人として自称・天皇一族が考えた宗教政治観・祭政観を「誇大妄想」と呼んで否定しているといえるだろう。我々の時代は既に思想の自由が一応、形式的には憲法で認められているが、池田のこれらの発言が、天皇家のやっている全ての儀式を根底的に否定する言説なのはいうまでもなく、そうであれば、予てからの天皇家の信仰やそれに伴う尊厳の様な物を粉々に打ち砕く反天表現なのは当然といえよう。実際には池田の考え方にもかかわらず、それをさも尊王論者である会沢の思想への批評かの様、他人のふんどしで相撲を取る式に書いているところに池田特有の陰険さ、意地悪さがある。直接的にいえば神道による天皇の統治は誇大妄想によるインチキだ、と池田は日本に於ける王権神授説を否定しているのである(天皇神権否定説)。なおこの池田の指摘が明治憲法以来、或いは大和王朝以来、同様の天皇神権を基に企てられている現憲法1章を根本的に否定する考え方なのも当然となるだろう。

 他、池田はくり返し「カルト思想」「特殊な尊王カルト」「荒唐無稽なカルトのようなもの」などの表現で、とかく水戸学に否定的評価を与えようとしているが、これは、結局のところ天皇親政とか天皇政体とかを、象徴天皇制を含め否定する結果になるし、それどころか、会沢安の言う国体も否定することになる場合、天皇のもとにまとまる統一国としての日本国という枠組みをおおかれすくなかれ否定する事にもなる。要は近代日本を解体する。会沢が『新論』で提出する以前に、令制国下の諸連邦状態だったその様な統一連邦の構想は存在しなかったのだから。
 後期水戸学の尊攘論と開放貿易による富国強兵論は、国体のもとにまとまった日本列島を欧米列強に伍させ、後期水戸学派の構想通り、植民地化防止に働いたのが事実だが、結局、水戸学が国体という枠組みの提出で日本国を成立させたこれらの世界史的功績を否定する事は、近代日本の歩みを全否定するばかりか、その基礎構造とされた飛鳥時代頃の天皇家の奈良界隈での政事から、つまり大和王朝の正統性から全否定していく事にまちがいなく繋がるだろう。

 池田はこうも書いている。 

徳川家の副将軍が「日本は神代の昔から天皇のものだ」という(のちに徳川家を倒すことになった)誇大妄想を397巻もの膨大な偽史で立証しようとしたのはなぜか、という謎は昔から歴史家を悩ませてきた。
――池田信夫blog『近代天皇の生み出した左翼的ステレオタイプ』

 そんな歴史家(公然と嘘をつく小説家でなく)がどこかにいるとすれば、『大日本史』の序文――義公が自らの修史の志を説明している――を読んだ事がない人だけだろうから、少なくとも、歴史家というより不勉強な自称評論家の類ではないだろうか。もし同史の本文を読まず存在だけを知っている、という状態でなければ、

・慶喜は徳川家を継いだのであって倒していないし徳川宗家らは今も続いている
・もし神道が「誇大妄想」だとしても、天皇家が奈良時代から現に神道教義を語りながら政治や祭事(宗教儀式)をしてきていたのは唯の史実
・正史は偽史の真逆の概念(偽史は創作小説などを指すもの)
・そこでいう「昔」が江戸時代からだとして、義公以来の史書編纂事業の科学的意義について、一体だれがどこで悩んだのか?(考証学的な史学は系統だった科学であり、古代中国で司馬遷が『史記』を残して以来、日本圏でもとうに学術的意義が確立されている)
など、恐ろしいほど多くの難点のある文章を公然と発表できないと思われる。義公が編纂をはじめた『大日本史』は、江戸時代当時に知られていた全ての史書の様式で最も正式と考えられた紀伝体で、『史記』を範にとって書かれた文章なのは本文を読めばまず誰でもわかるからである。恐らく池田は皇国史観なるものを単なる教義として否定したいがために、江戸時代から明治時代当時までに知られていた史学の科学的手法をも間接的に否定してしまっているにすぎないのだろう。しかし義公は日本史を知ろうとする結果として、彼の研究や彼の書いた史書がのち皇国史観を示していると呼ばれる事になるだけで、彼が18歳のとき感銘を受けた『史記』を範にとっているからには、そこでは皇帝を列挙するのが基本的手法なのだから、日本の皇帝の系統として天皇に辿り着き、歴代の彼らを記述したのは自然な流れだったというべきなのである。