常陸国や水戸藩の侍達は余りに尊すぎた。
この為いまだ一部の人々に誤解され、
全く事実誤認でしかない中傷を受けている。
しかし下衆は下衆根性で生きているのだから、
彼らに貴族精神など永久に理解できない。
類は友を呼ぶ。
人々が褒めちぎるのは必ずや同程度の者で、
高貴な義務はそれに値しない人には感じ得ない。
わかりもしない道徳は、
わかる資格のない者には意味不明だ。
代わりに不徳な衆愚は普段の恨み節で、
最善者への悪口がつい口をついて出る。
池田信夫や原田伊織。
関良基や山内昌之。
哲学系ユーチューバーじゅん。
彼らには貴族道徳というものが理解できない。
貴族義務に無知な者は、
水戸の徳川家の哲学を恐怖主義だという。
だが公爵に彼ら水戸藩主の家が叙されたのは、
恐怖主義的行動をしたからでは毛頭ない。
なるほど彼らも一大名たる専制君主だったろう。
だがその家臣団は尊王の大義に先駆け行動し、
王道を開く自己犠牲を図っていたにすぎない。
慶喜公は主家天皇にひたすら恭順し、
明公は完成した天皇の正史を皇室へ献上した。
他家に比類なき勤皇の勲功を、
特別に、皇室直々に叙されたのである。
水戸の徳川家はミッドフォード男爵がいう通り、
もし貴族なるものがいれば彼こそ本物の貴族、
最後の将軍・慶喜公を生んだ。
吉子女王と烈公はこの子をそう育てた。
水戸藩の人々も彼をそう羽含んだ。
しかし、彼は常陸国の外の世界では、
完璧な悪魔達に取り囲まれていた。
主家の天皇家へぬれぎぬされてから、
どれほど長い年月、彼が苦しんだろう。
天皇家は余りに卑劣で浅ましい家であった。
そしてそのことは徳川宗家も同じだった。
本家筋がより貴い心を持っているとは限らない。
水戸の徳川家は彼らの貴族精神として、
本家に忠実たるよう徹底してしつけていた。
義公は言った。
「わが主君は天子なり、
今の将軍はわが宗室なり」
同じく烈公は言った。
「朝廷に弓を引く事は有るべくにもあらず。
ゆめ忘れる事なかれ」
慶喜公の悲劇はこの母方の天皇家、
父方の徳川宗家、
傲慢な両本家との道義的摩擦で生じたのだ。
初めは父方の本家・徳川宗家の覇権主義、
次は母方の本家・天皇家の陰険ぶり、
どちらの本家も余りに傲岸不遜。
天皇家は真正の外道ですらあった。
義公は『古文孝経』を引き、
「君君足らずといえども臣臣足らざるべからず」
とも言った。その言いつけは、
天皇家の悪魔ぶりで悲劇の極みを演出した。
天皇家は最大の忠臣として歴史に姿を現した、
義公の末裔、
水戸の前将軍慶喜公を突如「朝敵」と呼ぶと、
彼の臣下たる松平容保公の城下町で、
侍と民を無差別大量虐殺して回った。
天皇家は天子などではない。
単なる腐り果てた暴君の家柄だったのだ。
長ければ長いほど世襲の絶対君主は腐敗が進んでいた。
その後の天皇家は京都で身に着けた意地悪さの余り、
罪なき人々を1億人近くも、国内外で殺戮し続けた。
とっくに悪魔に成り果てたこの偽天子の家は、
義烈両公も慶喜公も、彼らの奉じる徳治主義も悉く裏切り、
ただの純然たる最悪君主の本性を露わにしていった。
今も真の貴族が最大の犠牲なのは変わらない。
だがだからこそ彼らは貴族たりうる。
はたから伺い知れぬ重い道徳的負担は、
嘗ても今も、下司にはおよそ全く理解不能で、
真の貴族は高い道徳観のもと異なる世界に生きている。
慶喜家の末裔の徳川慶朝公は、
最後の時を茨城県水戸市の病院で過ごした。
結局、彼の伝承した貴族精神を正しく理解できたのは、
おそらく、実家のふるさとの茨城県の人々だけだったのだ。