2021年9月30日

最後の将軍と偽天子

常陸国ひたちのくにや水戸藩の侍達は余りに尊すぎた。
この為いまだ一部の人々に誤解され、
全く事実誤認でしかない中傷を受けている。
しかし下衆は下衆根性で生きているのだから、
彼らに貴族精神など永久に理解できない。

類は友を呼ぶ。
人々が褒めちぎるのは必ずや同程度の者で、
高貴な義務はそれに値しない人には感じ得ない。

わかりもしない道徳は、
わかる資格のない者には意味不明だ。
代わりに不徳な衆愚は普段の恨み節で、
最善者への悪口がつい口をついて出る。

池田信夫や原田伊織。
関良基せき よしき山内昌之やまうち まさゆき
哲学系ユーチューバーじゅん。
彼らには貴族道徳というものが理解できない。

貴族義務に無知な者は、
水戸の徳川家の哲学を恐怖主義だという。

だが公爵に彼ら水戸藩主の家が叙されたのは、
恐怖主義的行動をしたからでは毛頭ない。
なるほど彼らも一大名たる専制君主だったろう。
だがその家臣団は尊王の大義に先駆け行動し、
王道を開く自己犠牲を図っていたにすぎない。
慶喜公は主家天皇にひたすら恭順し、
明公は完成した天皇の正史を皇室へ献上した。
他家に比類なき勤皇の勲功を、
特別に、皇室直々に叙されたのである。

水戸の徳川家はミッドフォード男爵がいう通り、
もし貴族なるものがいれば彼こそ本物の貴族、
最後の将軍・慶喜公を生んだ。
吉子女王と烈公はこの子をそう育てた。
水戸藩の人々も彼をそう羽含んだ。

しかし、彼は常陸国の外の世界では、
完璧な悪魔達に取り囲まれていた。
主家の天皇家へぬれぎぬされてから、
どれほど長い年月、彼が苦しんだろう。

天皇家は余りに卑劣で浅ましい家であった。
そしてそのことは徳川宗家も同じだった。
本家筋がより貴い心を持っているとは限らない。

水戸の徳川家は彼らの貴族精神として、
本家に忠実たるよう徹底してしつけていた。
義公は言った。
「わが主君は天子なり、
今の将軍はわが宗室なり」
同じく烈公は言った。
「朝廷に弓を引く事は有るべくにもあらず。
ゆめ忘れる事なかれ」
慶喜公の悲劇はこの母方の天皇家、
父方の徳川宗家、
傲慢な両本家との道義的摩擦で生じたのだ。

初めは父方の本家・徳川宗家の覇権主義、
次は母方の本家・天皇家の陰険ぶり、
どちらの本家も余りに傲岸不遜。
天皇家は真正の外道ですらあった。

義公は『古文孝経』を引き、
「君君足らずといえども臣臣足らざるべからず」
とも言った。その言いつけは、
天皇家の悪魔ぶりで悲劇の極みを演出した。

天皇家は最大の忠臣として歴史に姿を現した、
義公の末裔、
水戸の前将軍慶喜公を突如「朝敵」と呼ぶと、
彼の臣下たる松平容保公の城下町で、
侍と民を無差別大量虐殺して回った。
天皇家は天子などではない。
単なる腐り果てた暴君の家柄だったのだ。

長ければ長いほど世襲の絶対君主は腐敗が進んでいた。

その後の天皇家は京都で身に着けた意地悪さの余り、
罪なき人々を1億人近くも、国内外で殺戮し続けた。
とっくに悪魔に成り果てたこの偽天子の家は、
義烈両公も慶喜公も、彼らの奉じる徳治主義も悉く裏切り、
ただの純然たる最悪君主の本性を露わにしていった。

今も真の貴族が最大の犠牲なのは変わらない。
だがだからこそ彼らは貴族たりうる。
はたから伺い知れぬ重い道徳的負担は、
嘗ても今も、下司にはおよそ全く理解不能で、
真の貴族は高い道徳観のもと異なる世界に生きている。

慶喜家の末裔の徳川慶朝よしとも公は、
最後の時を茨城県水戸市の病院で過ごした。
結局、彼の伝承した貴族精神を正しく理解できたのは、
おそらく、実家のふるさとの茨城県の人々だけだったのだ。