2021年8月9日

自分が気づいた宮崎駿やジブリの戦争、倫理、人間観の限界について

宮崎駿がこの世は生きていくに値すると子供に伝えたい、云々と言っていたと私は記憶している。しかし、この考えは基本的に彼の願望にすぎないだろう。
 なにしろある子供にとって、この世では生きていく方が悲惨だという場合も十分考えられるし、生きていた事で想像を超えて苦痛な目に遭った場合もあるからだ。それは物心つかないうち長期的にナチから死んだ方が随分ましな拷問を受けた上に、最終的には親の手で虐殺される様なホロコースト被害者の現場に立って、この子にこの世は生きていくに値する、と宮崎駿が言動したところで、それって宮崎個人の一生の大衆商業アニメ成功者としての感慨でしょ、と僅かな慰めを除けば殆どの観点から偽善でしかないといったあからさまな場合から、そもそも、子供をもたず乞食以外で働かない、自然死を解脱として目指す釈迦ことガウタマの仏教や、厭世論を語ったショーペンハウアーのよう反出生主義の信仰あるいは世界解釈のもとでは成立しない議論である事も確かだからだし、それ以前に、人類なるものはかれらから虐げられるほかの諸生物からみたら天敵以外なにものでもなく生きていくに値するどころか絶滅に値する存在でしかないだろうことからも明らかである。

 上記以外で、ここでは特に、現実に、普遍的に、つまり万人にとってこの世が生きていくに値するかを厳密に考えてみるが、自分が思うに、特に根本的には、必ずしもそうではないだろうと思う。端的にいえば宮崎は性欲あるいは生命欲といった生存欲求の充足を人生の目的にすりかえている。だが、上記仏教以外で武士道、イスラム教もしくは神に仕える身としてのキリスト教や、定言命法(無条件の命令)にまつわるカント思想など、ある場面で死または繁殖しない方に生や出生出産より高い価値づけを置いている倫理・宗教・哲学の体系は以前から存在し、しかも広範に、人類の過半以上に現に信じられている。ということは、宮崎の生存至上主義の様な考えは、どちらかといえば極めて特殊な思想、ある面では狂気に類した思想であると思う。
 例えばもはや親・兄弟または妻子といった家族を殺すか自分が生き残るか2つに1つしかない、といった場面で、森鴎外の『高瀬舟』では兄弟殺しで死刑、史実として徳川家康は妻子を殺し将軍になる。これらは極端な場合に思えるだろうが、極端な現実ではいつでもだれもに起きうる場面で、仮想条件としてその際の倫理について考えておくのも必要だろう。結局、家族殺しをしても生き残る方が正しい、と、ある種の非文明的で野蛮な考えに、この宮崎思想はいきつくことになるはずだ。

 現実に、宮崎がこの発言をした時は最後の長編作品として『風立ちぬ』の発表後に引退会見かなんかでだったと思う。この作品は小説のアニメ映画化だが、要するにゼロ戦開発者が美化されて描かれ、技術者は侵略戦争と罪なき市民や軍人虐殺に加担していた罪なんて何ら感じませんよ、という兵器狂いの民族主義が全開にされている実は野蛮な話なのだが、ジブリだけにそういう現実の層は完璧に消臭され、主人公が真面目でいい人みたいに描かれているばかりか、かの戦時中なのに優雅っぽい、かつ、お茶の間向けの癖にあだっぽい恋模様まで挿入される。だから僕は、宮崎のジブリ作品でこれが最大の失敗作、というか唯一まぎれない失敗作だと思っており、作らないままで終わっておけば綺麗な作家人生だったのにね、と思っているのだ。が、どうしても彼の本音が出てしまったという点でいえば、最も宮崎駿という人物の思想の深淵、しかもその野蛮さが表れている点で、それまで何とか子供向けの体裁で隠してきたあらゆる汚点みたいなのが、ほぼ直接露わになっているから、大人が宮崎研究に使うにはいい例だった。
 要するに米軍に負けて悔しいから次はやっつけてやるんだもん、みたいな、幼児体験がそのまま表れている点で、宮崎の兵器研究の原動力が、その種の旧日帝の軍部教育に由来している事がわかるし、倫理的反省という層では、侵略罪やら虐殺やらに、全然なんの痛覚も感じていないらしいという事が明らかにわかるわけである。それは高畑勲が、いたいけな広島市民の目線だけを描いて、広島人が西軍に与し幕末以来侵略虐殺三昧してきた現場の方は隠している事、米軍を擁する国連側の正当防衛という名目での日帝領域削減の成功とその後の植民地独立も単に、完全被害者目線で非道な天敵による暴挙くらいにしか描けていない事でも、間接的にジブリの歴史観の浅はかさ、というか戦争観に関しては明白に反社会性を示していると言っても過言ではない。そこらによくいる無学もしくは浅学なネット右翼レベルであり、さすがにネオナチとまではいかないが、ある意味、子供向けに日帝時代の天皇ら首脳部や軍部、特高警察が検閲や冤罪の国賊あつかいで善人を虐待三昧し、進んで天皇含むそれらの悪党に力を持たせるばかりか協力し通報とかしていた一般日本人社会での底知れぬ負の振る舞いを無罪視させ美化する点ではそれよりたちが悪い面もある。というか軽井沢で悠々と絵描いてる様な世界観って、現実に軽井沢行ったことあるけども、そんなに美しい世界ではない。これは本当に。只の東京圏のちょっとした小金持ちの、偽善的な俗物社会なのである。真実に美しいものって、もっと田舎の方の、誰からも知られていない様な素朴な現場にあるのだ。戦争になる前は野原で菜の花の間で遊んでいたとか。宮崎は、特に少なくとも日帝こと明治政府の侵略罪、その際の日本軍人あるいは自称官軍(西軍)によるあまたの蛮行については、何も批評しえていないのである。それが宮崎の歴史観や倫理学、あるいは人間界の限界だった。

 宮崎は『平成狸合戦ぽんぽこ』――僕的には、社会批評性という意味で一番優れていると思う作品――で、あるいは『風の谷のナウシカ』や『借りぐらしのアリエッティ』で、文明とか近代化という名の自然破壊の偽善を、ある鋭い筆致で批評しえていると思う。完全に批判しきっているとは言わないが、そういう目線については、彼が恐らく仮想敵というか、アニメ会社論の上では実際の敵にしていた手塚治虫より、多分優れていた。
 しかし、戦争論についてはそうではなかったのだ。

 そしてそういう戦争観に基づいて出てきている発言が、この世は生きていくに値する、という言葉だとすれば、昭和、平成、そしてこの令和期に大量に自殺者が世界最悪級に出ているこの国の絶望について、かれはなにも知りえていないというべきであり、実際になんの感覚も理解ももっていないに違いないのだ。新小金井だったか国立だったか、あのあたり。僕の親友が国立に住んでたことがあるので行ったことありますが、あの半分お洒落ぶってふざけた様な余裕ぶった間抜けな空間が、僕はかなり気に入らなかった。駅の感じというか。駅周りの人間観というか。
 なんか小さなハンバーガー店に座って、ロッテリアだかマクドナルドだかは忘れましたが、ドムドムだったか忘れましたが、少なくともモスではなかった筈。僕はモスバーガーは特別な会社だと感じており、一段、上にいる会社だと思っており、それであるから池袋のモスで野菜サラダを頼んだ時はここはほかと違うなぁと感じた。なのでモスならおぼえているはずだが、野菜とかなかったので、あれはそれ以外のどれかだ。で、そこで親友の小野君(当時造形大)とちょっと話したんですが、将来どんな美術戦術とってくかと。当時として。しかし、自分は今だから改めて感じておもいだしたが、あの国立あたりのね、駅前の。ちょっと位置的に高くなっている駅のなんかコーヒー店みたいなところで、休日に宮崎夫妻がいたとかきくと、そんなもんかと思うのだ。
 リアルに自殺していく人達ってもっと苦しんでいるし、悲しんでいるし、どうしようもなくこの世に絶望している。その人達の心の声とか叫びなんて、宮崎にはついぞ全然わからなかったのだ。だから作品の中にそういう世界はでてこない。逆に、そういう人達の、つまりは近代日本の犠牲者側の声を少しなりとも取りあげてきた人達って、まずほとんどいないんだが、ほとんどすべての人達が薩長あげとか日帝の謎の美化とか戦後は手のひら返して米軍万歳かどれかだからだ。会津戦争の侵略虐殺被害者とか、徳川斉昭や慶喜と水戸の志士・烈士とか、平田学派と奥羽越列同盟の間で板挟みになった秋田の立場とか、日露戦争でやられたロシアとか日清戦争でやられた清とか、植民地化・併合された北海道、沖縄、朝鮮、台湾、東南アジア諸国、ビルマその他の国々の目線とか、奇襲されたハワイの目線とかで、物を語る人を日本語圏のアニメ作家とやらで見た事がない。とにかく明治政府と西軍は偉かったーとか満州事変で国連脱退した石原莞爾は神だとか(みたことないですがそうでしょ)、百人斬りしてた薩長軍人は神だとか、やれ乃木希典は軍神だとかそんなのばっか。松陰が神とか。意味がわからないので。薩長土肥って侵略犯なのであって。一緒に政治改革しましょうねと薩摩だの長州だのと同盟くんでた水戸からみたら、薩長土肥とか純然たる裏切者なのであって。いきなり裏切って侵略してきたやつらとか、何一つ偉くないし。小御所会議で慶喜公うらぎった京都勢も広島勢もなにひとつえらくないのに150周年記念もへったくれもないもんだ。天皇もなにひとつえらくないし。侵略犯だわ裏切り者だわ。えらくもない人たちをもちあげる。死の商人坂本龍馬を美化する。意味がまったくわからない。それって、結局、幕末から平成までの日本人って、最低でも西日本勢って大抵が無知か、よほど倫理がないか、悪意しかないか、どれかだ。自分達が神、他人はごみみたいな価値観で生きているからそんなわけのわからない悪人の美化ができているとしかいいようがないだろう。そして同じ事は日帝軍人を、さすがに米軍からの目線を除いて飛虎将軍とかは微妙かもしれないが、各地でいきなり侵略していって近代化の名目で納税奴隷化したさに市民虐殺とか強姦とか悪事三昧してるとんでもない主権侵害・人権侵害の現場をぬきに、無罪放免あつかいどころか、一見よい点だけをとりあげて南京虐殺はなかったとかいいだすばかりか、原爆落とした奴が悪いとか、お前は三島由紀夫かとしかいいようがない。宮崎駿も、ある意味その時代の残党だって話。我々はつい忘れがちだが、それだけ彼の歴史観が洗練されていなかった、というか基礎的事実を誤認しているかおおよそそれに伴ってなんだろうけど人としてあたりまえの倫理がないのが事実なので。

 宮崎が救われていたのは、現実の歴史を扱わなかった事なのだ。『もののけ姫』は桓武天皇批判か? という解釈もぎりぎりできて、NHKドラマになった高橋克彦『火怨・北の英雄 アテルイ伝』(実写で、ジブリ作品ではない)ほど強烈な歴史批判ではないにせよ、飽くまでファンタジーの枠だったから、ジブリの歴史観が浅はかで主観的すぎ、子供だましで、片寄っていてガタガタでも視聴に堪えた面がある。『アテルイ伝』は皇国史観の批評として大人が正視しても非常に興味深いものがあり、なるほど、桓武天皇って渡来系の帝国主義者だったよね、というのが歴史の真相であれば、我々の習うというかやたらと本居宣長やらやら小林秀雄やら茂木健一郎あたりからもちあげられている嘘だらけの記紀やら、それとは別に飽くまで実証なので嘘ではないだろうが水戸学(皇国史観)以来の近代日本史って、天皇にご都合主義で捏造されてたんじゃねーのという、そういや古墳時代以前のひみこや先住日本人の数万年以上の歴史を、飽くまで弥生時代頃に天孫降臨した渡来人と名乗っている天皇家は抹消してきたよね、と当たり前の事実に気づかせる点で、大変優れている。が。ジブリの歴史観はそこまで徹底した批評性をもっていない。だから大人になってみると、これは酷いとなってくる。
 ここではそれがいいたかったのではない。本題に戻ると、宮崎はあの『風立ちぬ』で、女主体で交尾きて場面をお茶の間向けな癖に描いたが、あれこそ、宮崎の本質的野生の人間観を示しているわけだ。おしとやかな日本女性性をぶちこわしている。大和撫子観をぶちこわして戦前だったら非国民あつかいされる余地は相当あるのに、戦時中の話とぬかしているのだ。この時点で、偽愛国者である。しかし、宮崎はほかの場面でこうもいった。村の娘からもらった形見かなんかを忘れてサンにそれをやってしまうのは浮気ではないかとか問われて、男ってそういうもんだよ、と宮崎がいったとかなんとか。こんな男性観をもってるのは、はっきりいって、宮崎がドラクエ5でいえばフローラ選んで当然でしょとか堀井雄二がいったのと同じくらいに酷い話で、端的にいうと、宮崎個人が不誠実な男性だということを主観的に吐露しているにすぎないのだ。断言してもいいが、男一般がアシタカみたいなやつなのではない。寧ろそういう男性にのさばらせているからこの世がダメになるのだ。女が甘やかすのもいけないのであって、断固として浮気者は断罪といってこの世から完全に淘汰してしまえば、二度と復活しない。それが進化というものだ。だから宮崎のその男性観も、は? ふざけんなよ、といって潰していくべきである。私が思うにはそうだ。村の娘にあとでちゃんとあれ、知らない女にあげちゃったんだ、ごめんねと言っているのならどうしようもない男だが、まだ済まない事をしたとはいえ、はい愚か者で終わる。一夫多妻だろうが、ほかの妻が容認しているならまだいい(宗教によってはそうだし、そうでなければならない場合も含めて多分)。隠し事として浮気している男は、純粋に不誠実なだけというべきだ。それは裏切りというべきで、成程、何らかの事情でやむを得ずそうしたといった場面でも、正妻側からしたら、は? ふざけんなという権利が担保されるべきなのは確かであり、それは正夫とかその他の性差からみてもそうではないか。端的にいうと、ここでも宮崎の野蛮な人間観が発揮されている、生存至上主義の卑しさがしらずしらずあらわれているというべきで、いや、浮気するくらいなら死にます、という男女その他だっているのだ。本気で。論介みたいな。オフィーリア的な。そして、その種の死は生よりも実際に尊いものかもしれない。

 無論、無駄死にとか意味ないだろうけども、なんらかの観点から道徳的に、死の方が生より重要さを帯びる時はしばしばやってくる。それは冒頭に挙げたホロコーストの現場で、いかに苦しい状況でも生き抜こうとした人達、それにもかかわらず死んでいった人達の生命欲が尊かったことと矛盾しないだろう。しかし、敵に殺される前に自らの名誉の為に切腹していた武士だとか、イギリス帝国による奴隷化の陰謀の前で非暴力不服従で餓死だとか、あるいは現代のアマザラシが少しよりとりあげている非正規雇用の絶望的な世界の中で愛も何もなくただ消費する労働機械化されている自分に、もしくはいじめられて格差社会のなか全方位に味方のいない極貧引きこもりをしている間に惨めな一生に終止符を打とうとして死に至った様な人たちとか、相当そういうのって、この安倍独裁以後のコロナ禍社会で物凄い量でふえているし、その上でいざ自分達も外に出れなくなったら巣ごもり消費とかぬかす、以前は子供部屋おじさんとかいって弱い者いじめ(貧者圧殺)ばかりしてきた正規社員に手のひら返され、自分達が払った税金すら生活保護叩き水際作戦でかえしてもらえず、皇族輩だけは借金留学贅沢三昧の弱肉強食のほどはもはや差別の行き過ぎで人間業とは思えない国なわけだが、そういう最悪の場で生きていくに値するって、それはあなたが恵まれていたからでしょうとしかいいようがないではないか。

 自分は反出生主義にはまっている或る女と一時ネット上で会話していて、その女の生涯の様子とか色々間接的に見聞きしたが、確かに、その女自身が自分だったら生きていくに値するとはちょっと思えないと感じられた。それって、宮崎がそういう人達の現実の現場を知らないだけに思う。ある意味で、恵まれない人達にかなり接近して書いていたドストエフスキーだって人間を随分美化して描いている。本当に汚い人間性って、実際にみればみるほど、こいつら死んだ方がいいなと感じる様なしろものである。だから文学以前に、宮崎って人間観が浅すぎるのだ。人というものを知らなすぎる。その浅さがよい方面にでていたのが、子供向けの甘ちゃんアニメの数々だったのだ。しかし現実の現場を描こうとした『風立ちぬ』ではそれが180度悪い方にでてしまい失敗したのである。
 だから何って話だが、本物の極悪人とか、悪というものの実相を、なんにせよ実際に目撃したことがある人、また自分がその被害者になった人って、人間ってどんな極悪人でも生きてたほうがいいとか、生き残るべきとか、生きるに値するみたいな人間観はもてなくなる。完全に死んだ方がいい人間って、実際にはいるのだ。それは人間性には暗面が果てしなくあるからで、例えばヒトラーとヒムラーとか、大量虐殺の命令くだしていたが敗戦した途端、実は戦争反対だったとか原爆投下はやむを得なかったとか敗戦必須となってから彼の身代わりになった東條英機への責任転嫁でいいのがれた昭和天皇とかがそうだと言われがちであるが、そういう次元でなくても、身近に、ダークトライアドとかダークテトラドとかそういう部類の荒らしによる悪意の底が抜けた極悪行為の数々をみていたり、実際に被害にあっていたり、虐めっ子と呼ばれる人たちがどんな悪業をくりかえしていて邪悪な大人もそれをやったり加担したり言い逃れたり隠したり、公然と善意の人を傷つけたり立ち直れなくさせたり、この世から消したりしているかを知っていれば、人間性って負の面については許しがたいと認識できるはずなのだ。それが正しく人間なるものを理解しているということで、要するにこの世は生きていくに値するなど、悪の諸相を知っていれば到底いえた義理ではない。生きていくに値しない人達が無数に生きていて、そういう人達は日々、よい人達よい魂をダメにして生きているのである。ある意味、道徳相対論をご都合主義でもちだしてくるある種の頭の悪い人達も、そういった極悪系を暗に免罪し、生存し易い環境をつくりあげているという意味で同罪なのである。

 だからこれが結論だ。この世は生きていくに値するとは、ある限定的な場面でいえることで、必ずしも一般的にいえる話ではない。特に世界の過半の人達は、宗教観としてそれと矛盾した事を信じており、特に自己犠牲が必要な場合では、生存至上主義を進んで放棄する方が正義だと信じているのが確かである。命がけで人助けをして死んだ、とか、そういう場面で、かれらを馬鹿な奴だなぁ、生きていくに値する世界なのにとかいえるだろうか? 実際つい最近も県南のある海辺で、ある在日外国人がおぼれた子供助けようとして死んだと茨城新聞載ってて現実にあった話である。
 人が性欲だかそれを美化していった恋愛だか、結婚だかで勝手に繁殖してふえている。それって、当人達が哺乳類だからでそれ以外ではない。だからこれをそれ以上美化している人達は単に愚かだ。他の動物も同じ事はしているのだ。
 問題はこの生殖だかそれを補完する形の共同体の相互扶助の美化を拡大解釈して、どの人にも生きていくに値するみたいな過度の一般化を述べる事である。地球世界の犯罪率の低下傾向からみても死刑廃止はどの国でも人権の観点から時間の問題だからさしおくが、生きていくに値しない世の中って普通にあると思う。そういう世界だと深く認識しているからこそ、理性的にこの世に絶望する場合があるんでしょう。自分にとっては、井坂君から謎に暴力振るわれ毎日やりたくもない格闘で自己防衛しなければならない上に毎日車酔いで限界まで気持ち悪くなりまくる幼稚園に通いだした子供の頃から既にそうだったし、その後参加したほぼ全ての社会・共同体で今まで一度たりともこの世が生きていくに値するとか感じた試しがないし、実際に、そんな良い世の中ではまるでなかった。多少例外的だったのは属していた自分の同級生らとか全員に全く相互に敵意がなかった、かつ相手の個性を完全に認め、根本で最大限に尊重していたと思われる高校美術部くらいで、それも非常に短い期間で終わった。自分が3年生だった1年間とかで。ほかのすべての期間、僕がこの世でみたのは、自分より遥かに悪辣・悪質で悪徳に満ちた野蛮人達だったし、そういう人達に囲まれて少しでも幸せになれる筈がない。つまりこの世って、人間界って生きていくには到底値しない場である。それって宮崎の生まれ持ったあるいは生存途中でみにつけた道徳性、善さが僕より遥かに低くて、まわりにあふれている東京都民だかと同類だと宮崎個人が感じていただけのことで、自分は都内に住んでてもなんだこの下衆の社会って心底本当に違和感しかなかったし、まるで肌に合わなかった。石原慎太郎都知事とか信じられなかったし、差別三昧で余りに野蛮で。いうこということ。そんな世界で平気でいられた、ってだけでも、宮崎駿ってよほど道徳性が低いのは確かだと思う。だからこそ、この暗い絶望の国で、生きていくに値するんだよーとか極悪侵略犯の悪業三昧を見なかったことにして済ませ、そいつらのとち狂った天皇崇拝だの残虐行為だのを兵器開発で手伝って美化する様な最悪アニメを、堂々と貞操破ったキャラで生きろとかいってリリースしてしまうのでしょう。

 宮崎駿って手塚治虫をアニメ業界に低賃金を蔓延させたとかいって散々ぶっ叩いていた。けどその体質って、手描きを続けたジブリ以後のアニメ業界でも総じて労働集約性、前近代的体質として受け継がれていたと思う。それだけでなく、京アニみたいにもっと手の込んだ弱知化傾向の商業アニメ会社みたいなのがでてきて、遂には搾取を恨んだ狂ったファンから放火されるまでに至ったわけである。社員にとっては幾ら好きなアニメのセル画描きだろうと予想されるところそれなりに過酷な労働だったうえに惨殺されるとか予想外だったろうが、全てを振り返ると、偶像崇拝で子供だましをつづけ、社会の落後者みたいなオタクに萌えとかいわせ金儲けしてきた業界構造自体が決定的に否定されたみたいなもんではないか。その後も性懲りもなく、アニメ稼業は続けられている、新海誠とかから。深夜アニメ勢とかから。しかし、自分がみるに少子化で間もなくこの業界って消えると思う。それってすべて自業自得なのではないか。
 宮崎は戦争・倫理・人間観が浅かったとかそれだけにとどまらず、経済・経営観もこれまた、それなりに浅かったと思われる節が、この業界構造の温存には見え隠れしているわけである。アニメーターにそこまで求めるのは酷かもしれない。彼はなにもウォルト・ディズニーではないのだ。一部上場企業の社長だかCEOになっていれば、これはもう話が違ってきた筈だ。しかしそこまで行っていない。中小企業の町工場のオヤジである。だから怒られない。資本と経営が分離していないからだ。そこに、宮崎の会社であるところのジブリの体質の、市場に諂わずしても或る程度は趣味的な創造性の有る作品を永らくつくれたよさもあれば、最終段階として大人になりきれないままの若者や子供の、夢だか偶像崇拝だかを搾取する業界構造の温存させ自爆させるというオタク的自滅性もあったのだ。

 自分は芸術にかなり長い間、人生の大部分の労力を割いていた。それで宮崎は或る種のロールモデルに近い状態にいた。少なくとも作品で生活できている人であり、その作品は同時代に受け入れられていたからだ。が。今にしてかえりみるに、上記の様な彼の限界も、既に彼が引退後だからかもしれないが、やはり大衆商業芸術というべきか、色々ぼろぼろとメッキがはがれる面がある。当時はよかったのかもしれない。だがその黄金期がすぎさってみれば、かなりわがままな作家が、鈴木敏夫プロデューサーの手腕で、巨匠の座におしあげられていったそのしくみや筋書きそのものが、ある陳腐さを伴っているのも嘘ではない。それは、『風立ちぬ』さえ出さなければ、われらとしても理想的な幻想アニメ映画を長編の枠で、あまた放って消えた独特の大衆芸術家像を疑わずに済んだ話だったのだ。
 おそろしいのは、宮崎駿が反面教師にしかみえなくなった、という時代の変化である。それはどうおそろしいかなら、安倍政権以後の状況が想像をこえて絶望的なので、もうどんなアニメの幻想をふりまかれようが現実の悲惨さの前ではどれも偽物として何の輝きももたなくなった点にあり、つまりは、アニメがはやっていたのは、所詮、現実が中途半端にぬるかったので贅沢病に耽っていたのだな、と我々は気づけてしまう事にある。そしてこの衆愚国家になんの救いの余地もないのだ。生きていくに値しないと判断する人達が余りに多くて、かれらには自殺をおもいとどまらせるどんな慰めもない。その慰めにすら値しない芸術とは、要するに無力で、芸術性をもっていないといってもいいだろう。宮崎アニメって、その意味では偽物だったのだ。『崖の上のポニョ』だろうと『天空の城ラピュタ』だろうと『耳をすませば』だろうと、みてもなんの慰めにもならない。それだけ平成末期の日本、そして令和初期の日本は、すべての面からみて終わっているのだから。