2021年8月10日

なぜ悪徳賛美が日本の一部では盛んにおこなわれているか

三重や山口の人達一般が本居宣長(もののあわれ論での反道徳主義)、吉田松陰(無政府侵略主義)といった悪徳賛美の思想をもつ地元人を偉人視してきたのは、それを行うかれら自身がこれらの傾向を美化しているからだ。
 孔子やカントといった良心をこの上なく重視する人々とその支持母体は、本居や吉田らについて悪魔崇拝者としか感じられないし、反面教師にしかしないだろう。

 京都で皇族の乱倫模様を多少あれ美化して描いた書いた紫式部が偉人視されているのにも、やはり同じ事がいえる。京都の子供はこの悪徳賛美の風土を、現地の大人から伝統の常識かの如く刷り込まれるため、ある程度より賢くなければその種の中世自文化中心主義的な反性道徳を、さも普遍的に美事かと思い込み、疑えなくなってしまうだろう。この京都独特の風土のなかで生まれ育つ者には、性売買罪の一種である芸妓の社会のよう性的な頽廃が、まごう事なく美化されて映っているのである。
 似た事は東京圏で国内外の異文化体験にあまり恵まれていない子供が、江戸の町人文化から延長されている都内の下衆な大人たちの悪例をまね、また、かれらお決まりの都会中華思想による虚栄心から、オタク文化とか性風俗文化とか、あるいは私小説の自堕落な頽廃主義などを、さも世界的常識かの如く思い込んでしまう事にもあてはまるだろう。

 山口、鹿児島、高知、佐賀など、徳川家への裏切りとぬれぎぬ、侵略罪をおこなった西軍の主力となっていた地域の人々は、上記の様なすりこみの一般例として、幕末明治の郷土史を英雄化された物語のもと植えつけられている。そのため、この神話が現実には大いに片寄った嘘だらけだとも、あるいはまた、かれらの先祖による蛮行の被害をうけた会津や東北・新潟、或いは北海道、沖縄、関東圏もしくは朝鮮の諸々の郷土史・国史では、かれらの先祖がおよそ全く異なる語り継がれ方をしていると終ぞ知らないままで一生を過ごす人々がいまだ過半であるだろう。そしてここでもまた、ある自己批判的知能が生まれつき劣った人々や自集団ひいきの妄想が激しい人々にとって、その間で生じる認知不協和を解消させるためにより被害者側の立場を理解しようと努めるのではなく、却って加害者である自分達を正当化する暴挙に出る。こうして明治を過度に美化するネット右翼、あるいは過去の侵略・大量虐殺・収奪を含む殺人・強盗罪や集団暴行罪、人種・民族・門地・性差別による人権侵害を悉く神話化し美化してきた皇室が神道と呼ぶ自己崇拝の欺きが出てくるのだ。
 小御所会議以後で西軍への参加者だった広島県や京都府でも、同じ事があてはまる。かれらはつねづね、一般に侵略罪の反省をしていない。逆に明治150周年などと銘打ち、自分達の侵略罪を正当化したうえ彼らの先祖によるあまた非人道な裏切り・ぬれぎぬや残虐行為被害を美化して済ませているのだ。それはなるほど被害者側からみれば虐殺を含む主権侵害や陰謀の数々を良心をもたない蛮族が祝う野蛮の宴にすぎず、実際そこでの自文化中心主義や中華思想の罪深さには呆れかえるばかりだが、現実に、かれらはあまりに心をもたず、人権侵害的で、公然と被害者をしいたげるのを好むほど人でなしで恥知らずなだけなのだ。

 特に広島県では、ナチスドイツと同盟を組んでいた日帝による侵略罪への正当防衛として国連軍から原爆投下があった、という世界史の文脈を、少しも反省的に体化できずにいる。かれらは一般に、郷土史から原爆投下を自分達の被害だとすりこまれるので、それが日帝侵略による被害者側から見れば総じて真逆の評価、すなわち日帝という加害者の一員である広島人ら悪の権化からの植民地解放になることを全く認知できていない。この際、ネット右翼は原爆投下せずとも日本軍は負けていた(但し、かれらは一億総玉砕などといい、日本人一般市民への集団自殺の強要ふくめ、飽くまで国連軍を捕虜虐殺・自殺攻撃などで徹底殺戮しつづけるつもりだったことを必ずしも否定しているわけではない)、一般市民への攻撃は国際条約違反でただの大量虐殺は人道的でない(但し、かれらは国民皆兵令のもとで全日本人を含む日帝軍が各地で一般市民への虐殺・虐待等を先んじて広範かつより大規模にしてきていたのを進んで反省し認める事は、総じてないだろう)、と幼稚な言い分で国連やその擁護者とみなした他人にひたすら悪意でかみつくことになるが、この言い分が通る余地はかれらの日帝が犯していた各地での残虐行為から殆どまったくありえないのだ。日帝からの侵略の被害者の一員である米軍からすれば、自国軍や一般米国人の命を一人でも救済する事が至上の主題だったのは確かであり、原爆投下がそれに成功する一因だったのもまた事実だからである。なにゆえ自分達が進んで先制攻撃で加害しておきながら、また自分達が各地で想像を絶する残虐行為をくりかえしておきながら、それを止める為の被害側による正当防衛の一部を過剰防衛だといいうるのか? それとも、実際に一億総玉砕まで国連軍は戦い続けるべきだったというのだろうか。もし原爆投下がなければ、日帝は、各被害者にとっては永遠ほど長いしばらくの間、それらの侵略・虐殺・残虐行為を各地でくりかえしていたはずである。ところがネット右翼は通常この際、明白な証拠と綿密な論理構築の元で、国連を説得する能力をなんら持っていないし、単なるアニメチックな感情論で国際社会の同情を買おうとするばかりで、精々、自国の愚民や無知な子供を洗脳しうるにすぎないのである。そのため、ネット右翼はかれらに従う次世代をますます国際社会から孤立させるが、この被害者史観は根本で自己欺瞞にすぎないので、無恥な加害者の開き直りとして、日帝や西軍による侵略罪の被害を受けた地域の人々一般や郷土史からはみてとれるにすぎないのである。
 広島県の郷土史が、片方では幕末の徳川家への裏切り、冤罪、反逆と暴虐やその不正をみてとって徳川家を庇った会津への西軍からの悪意ある敵視を中心とした戊辰戦争での侵略罪を正当化し、日帝による植民地侵略も決して道徳的に否定せずして、原爆投下だけをことさら強調しているとすれば、その歴史はすべて、自己愛に片寄った自文化中心主義によっているというべきで、洗練された世界史的視野に基づく客観的事実の語りではない。この点で、広島人一般は県や広島市の郷土史から、先祖達の進んで犯していた侵略罪を否定せず正当防衛で原爆投下された事を被害者面で語る、という極めて特殊な自分達独特の郷土愛の位置づけを子供に植えつけ、かれらの成人後のある種の向社会性にも混乱をもたらしているというべきだろう。かれらには被曝者という一見被害者に見えなくもない人達もいるが、実際にはかれら被曝者を含む日帝臣民や皇族から各地で不当な残虐行為で殺され、人間の尊厳を根本から辱められていた無数の被害者らにとって、それらの空爆は一刻も早くその無限より深い悲惨から解放されるための然るべき報復だった、という真実の点が、自分達を飽くまで正当化しようとする広島被害者史観では不協和音化し、決して受け入れられないのである。そのためここでは悪徳賛美の一種としての西軍・日帝侵略罪の美化と、かれらに殺され辱められた被害者にとっては当然の報いの一部であるところの正当防衛被曝の被害者面が、広島被害者史観のなかに曖昧なまま同居しているのである。

 現長崎県は天領や松平家の所領であった島原藩を有し、佐賀藩を除けば西軍へ主体的に参加していなかった一方で、原爆投下をこうむった点で、広島の郷土史とこの点では若干より性格が異なるだろう。一方でグラバー邸を抱えるなど西軍に加担していた証拠もあり、尊王の水戸家に由来した島原藩主・松平忠和の戊辰戦争での立ち位置が徳川かつ皇軍側だった事からも、広島と違って、西軍・徳川どちらの立場でもあったといえる。総じて西軍の一員に与した事で、結果として佐賀藩が関東・東北・新潟・北海道・沖縄、或いは国外への侵略罪に加担した形になる。なおかつ、広島と違って隠れキリシタン以来のミサの最中に原爆投下された、という別の逸話ももっている。こうして、特に幕末侵略罪には一般に無反省な広島被害者史観と、単純同列に並べて語る事ができない。それにもかかわらず、長崎もまた、日帝による侵略罪や残虐行為そのものに無反省なのは、世界遺産の一部になっている軍艦島での強制労働の証拠を、長州閥・安倍晋三の嘘(お決まりの歴史修正主義)などで上書きし、ユネスコや韓国その他の良識派から注意を受けているのが事実である。つまりここでも、長崎の人々は一般に、自分達の侵略罪について反省していないのである。

 広島や長崎の人々が口に平和を願っているというのは、自分達が他国・他人の主権を決して二度と侵害しない、という心からの反省では毛頭ない。それは山口県4区の有権者の過半が、違憲な戦争法を樹立させた安倍晋三議員をくりかえし国会に送りつけてきている事からも、なんらこの点に反省していないのと同じである。単に戦争に負けた事を悔しがる、といった実に稚拙な次元のものなのである。そしてそれは、自分達が主権侵害によって他人に与えた加害行為を反省しているわけではないため、根本的に戦争によって被害に遭いたくない、だが他人に与えてきた損害や汚名については謝罪の念がない、という単なる自己愛のいいかえなのである。だからこそ、これらの地域では被曝という国連諸国による日帝侵略からの正当防衛の結果が、さも、かれらの悲惨な被害にすぎない、という歪んだ解釈で語り伝えられ、伝言ゲームの様に変形されつづけた結果、今では西軍や日本軍が一方的悪意による侵略で各地で犯してきた残虐行為については、それを主導してきた第一加害者である皇室ともども、自分可愛さのあまたの嘘とご都合主義による甘え切った自己愛妄想の連打のなかで、悪意ある侵略罪による主権・人権・人道侵害の加害者であるかれら自身がなぜか、被害者の立場におきかわっているのである。