2021年7月24日

広島という概念がいかに極右らの中で絶対無謬カードとして恣意的に引用されているか

広島の人達は平和外交主義だった徳川を裏切り、東北・新潟を戊辰戦争で侵略し、北海道や琉球を明治政府の中から略奪し、朝鮮や中国、東亜諸国へと侵略していく事になった端緒を、小御所会議でみずからの殿様・浅野長勲が作ったという業について、原爆投下が起きた直接の根本原因が、自分たち自身が吉田松陰『幽囚録』以来、西軍の旗印として採用してきた「侵略主義」なる主権侵害の国家犯罪をもたらす政治思想にあった、と自覚がほとんどないのかもしれない。

「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」。この原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)に掲げられている「過ち」とは一体なんなのか。広島市の見解によれば、「戦争」だという。

 それで広島を取り巻く人々は自分達が100%被害者で、全面的に自分達には落ち度がなく、軍部が起こした第二次大戦の被害者にすぎないなど単純な二元論で考えがちで、寧ろ彼らの侵略主義そのものが米軍と戦う原因になった、とすら、反省的に自覚していないのかもしれない。彼らはおおよそ常に被曝者の肩をもつが、広島人なるものが首謀者の中に入って戊辰戦以来各地で犯してきた侵略時の主権侵害に伴う残虐行為の罪については、おそらくあまり痛痒も感じていないのだろう。加害するのは正義で、その報復として被害したのも正義という、二重に身びいきの理屈で。
 戊辰戦争、西南戦争、士族反乱、日清日露戦争、日中戦争、第一次大戦、これらの戦争について広島を取り巻く人々が反省的に考えていたとすれば、本来、第二次大戦についても日帝側の加害行為に伴って敗戦に至った、と世界史の眼差しで自分達の置かれている立場を自覚できてもいい筈なのである。であれば結局、そこにあるのは、被曝という悲惨な被害を超えて、甚だしい利己主義、自民族中心主義、民族主義、あるいは自己愛の諸様相なのであろう。
 仮に過剰防衛だったと言われる余地があるとしても、米軍側には一刻でも早く日本軍に降伏させる必要があったのも事実である。だがこのことを広島を取り巻く人々は殆ど認めない。連合国や植民地側、或いは国内で侵略された統治圏に終戦の詔勅までに与えていた全被害については、無視あるいは無謬としているのである。
 いわば、この広島無謬論的な考え方をもつ人々は、被害者史観の様なものを自分達の中でつくりあげ、その中で、米軍ら原爆投下側を暗に絶対悪役にしたてあげ、自分達が侵略戦争を幕末以来おこなってきた、自らの国内外への加害への最終報復に過ぎない、という世界史の厳然たる事実については、通常、なんの深い反省の念も、自覚ももっていないと考えていいだろう。無論これは国外では逆の歴史観であるかぎり、ガラパゴス進化した、奇形的な利己史観でもある。そこにあるのは閉じた、内にこもった、自己中心的な考え方であり、広島の人達は大抵が、この客観的な、原爆投下の悲劇が伴っているやむを得ない日帝侵略防止策という世界政治史的意味づけを通常、彼らの人権を盾に取った怒りっぽさによって、まず自覚できていない。
 これは「広島」という概念を使って、さも親日・愛国者の振りをする全ての人達におおかれすくなかれあてはまる事でもある。彼らはヒステリックに広島無謬論を唱え、原爆投下の被害は絶対正義で、広島或いは被曝者側には一切過ちもありえないと全力で集団で狂気じみた発狂状態の抑圧的様相で、全体主義的・言論弾圧的・検閲的に罵ってきて、その他あらゆる観点からの多様な歴史的・政治的・人倫的疑義を徹底封殺していくのが戦後いまに至るまでの常だ。現に私は、連合国史観を飽くまで政治論として持ち出しただけで、ツイッターの狂気集団からの集団圧殺によってあっという間にアカウントを凍結・検閲されてしまった。誰にも言い訳のできないほど、甚だしい狂気が、この広島無謬論者らの間には確かにあるのだ。戦後広島無罪ファシズム。いうまでもないが、広島市民は臣民時代に日帝の協力者だったばかりか、幕末以来西軍の一員として、明治政府を主体的に構成する侵略者側だったのにもかかわらずである。

 そしてこの侵略罪への無反省ぶり、加害の無自覚さが、極右らの中で「広島」概念にぬりこめられたとき、いかに反連合国史観とか、単なる権術主義(勝てば官軍の暴力至上主義)とかに「正当防衛され負けたのに被害者面」という政治的二重基準ぶりがぴったりと重ねられてしまっている事だろう。極右はしばしば原爆投下不要論を使って米軍や旧連合国軍とその後釜を方法的に責め立てる手段に、「広島」を或る種の無謬被害者カードとして利用しているのだ。
 だが、このまやかしは今も昔も日本国内の奇妙な集団狂気あるいは固定観念含む狭い心の中でしか通用していない。勿論それに理由がない訳ではない。被曝の現場を身近にみているとつい、世界史や国際政治の文脈を忘れ、全面的にそう思いたくなってしまうのも人情という事だ。未来に渡っても程あれそうだろう。それは悪意と呼ぶべき利己心、征服欲や植民地主義、天皇崇拝の念、暴力・権力を支配した薩長藩閥・軍部や政府への従順、敵意から侵略した側の言い訳のできない加害の罪深さを意識の外に放って、被害者史観なるものを原爆ドームその他ですりこまれてきた広島の一般の人々も、世界史や他国史観、国際的視野に通じない極右も、余りに無感覚、無共感で他者への想像力に欠き、自分達の犯してきた誤った行動――主権侵害の暴力に無自覚すぎるせいだ。もしも広島が、或いは広島無謬論の利用者らが本格的に侵略被害に遭って初めて、彼らは一体自分達が過去いかに加害者の立場でいたか、それゆえ報復されざるをえなかったのか、真に自覚する日がくるのだろう。