ツイッター民を観察していて次のことに気づいた。
自称自由派のMが狂った様に五輪礼賛ツイートを連打し、一部の保守主義者らと類似の強行論・政権翼賛、愛国扇動などをくりかえしていた。偏狭な民族主義・国家主義の扇情、命の比類なさへの倫理的認識の欠けた、狂った科学屋による競戯信仰、反証科学的思考に対する自己欺瞞でしかない事例にみえなくもない。客観的にみて、ほか評価の仕様がない言動であった。
すると右派の一部と思われる人々が彼を礼賛しだし、
「Mにしては珍しい!」
「Mよ、急にまともになって、どうしてしまったんだ」
「いいことを言う」
などと口々に協賛の意を示していた。
他方、それまでMの主要なフォロワーであったろう自由派や左派らには
「もうフォローやめます」
「あなたを尊敬できなくなりました」
「いい加減にしてくれ」
など離反や疑義が相次ぎ、なかでも誠実性が高い人々には直接、Mの非人道的誤りを注意する者も数十では数えられないほど多くいた。またこのときMは、彼が個人的に尊敬する或る作家にブロックされた、残念だと騒いだ。
この過程で理解できるのは、人々は自分の主観という脳の限界を通じて、世界を覗き穴の様な閉じた場所から見ているという事である。
右派の相当数にとって「まともさ」は、人命軽視でも適当な理屈を確証偏見で集めた、コロナ禍での世界最大級の国際運動会(2020東京五輪・平輪)強行に求められていた。だからこの趣旨に合致する言動をとった者を、自分達の思想信条に近い存在とみなし、自分達のそれらの無謬性を信念上の前提に、或いは自集団・自己過信による無思慮さで、正常になったと再評価しだしたのだろう。
他方、自由派や左派の相当数にとって「まともさ」は、さも拝金主義的なIOCやIPCのなすがままにされている国や都による悪政惨禍から、人命重視の観点に立って一人でも死者を減らす現実政策をとる事であった。よってMの言動は幾ら彼なりの確証偏見を集めた言い分を連打するものであっても、国・都の政府の行いによって国民各位の命を犠牲にする点、憲法前文で禁忌された蛮行へ再び民権乱用によって進んで加担する点で、根本で非人道的であり、彼らには狂態にしかみえないのであろう。
この両極に有る人々の言動は、およそ例外なく、人々が、かれら一人一人の脳の質に応じた主観世界の外から、物事を見れないことを意味している。
愚か者は或る愚かさをまともだと信じており、それが現実認識として致命的であっても、かれら自身が被害を受けるまで大抵その愚かさに悟る事はないだろう。本当に愚かであれば、かれら自身の大いに自業自得な自滅被害後も現実認識の方を歪め、自分の判断が誤っていたと認める事はできない。
また賢者は、愚者がなにゆえそれだけ暗愚な行動をとるのか、どこで考え方を誤っているのか、多重な無知や判断ミスの山の前で、根源的にまるで相手の愚行を理解できない。想像的に相手の状況を仮認識できても、みずからの中に認知要素としてすら存在しない愚かさ自体に触れる事はできないからである。
これらが人類の生存条件として置かれている現場で、愚か者は愚かな世界の外に出れないし、賢者は愚か者の世界を、具体的な失敗として現れた外形に応じ、相手が恐らくなんらかの愚かさを持っているのだろうとの推測に基づいた、なんらかの事柄についての単なる失敗者という形式でしか、陸に窺い知る事ができないのである。
この主観の窓の外に出る事ができない限り、人は極端に脳の質が違う相手と根本的に同意したり、 相手の思考の中身をよく理解する事はできない。よって、よほど親しく情報共有が事前になかった相手で、もし相手の心の中身を既知情報の分析なしに完全に理解した、読み取ったと称している者がいれば、かれらは祈祷や占い、メンタリズムなどの心霊術もしくは心理学などのなんらかの統計的知見を応用した詭弁術で、相手を狡猾に騙している、又は丸め込んで騙そうとしている事がまず確実である。
単に、脳の質が違う人々は、一般的な次元ですら多かれ少なかれすれ違いながらも部分的やりとりが成立する会話や交際を除けば、互いに殆ど奇跡的な確率で偶然なんらかの一致によって一見、同意した様にみえる契約が行えたり、それすらできない時は、法権力や警察力、軍事その他の強制力で相互関係が便宜的に規定され得たりするだけであろう。
話し合いなど共同化で相互理解が進む範囲は、自生的に可能ならば基本的に、脳の質が生育いづれかののち或る程度似通った面の有る相手の間だけで、その範囲は意思の量的共有を含む情報の同期によって、一定の埒に限られているだろう。この意味で、あるごく希な奇跡を除けば脳間の完璧な同期は原理的にありえない、といった方が我々の主観間世界の置かれている現実での事態にとってほぼ精確なので、自己表現や他者分析の根本目的は、この程度としての同期限界へ向けての共同化に過ぎないのだ。