2021年6月3日

ツイッターで言葉狩りに遭った話

自分が知るかぎり、福島県いわき市にある磐城いわき高校という場所――どうでもいいが、ただの変人が集まっているだけでもないかもしれない、と示す為に書いておくと、いわき・茨城県最北圏で一応最も受験偏差値が高かったぽかったし今も高いらしい場所――で、周りの友達は大抵、「きちがい」という言葉を、最大級の誉め言葉として使っていた。具体的にいうと英語の「クレイジー」とほぼ、あるいはまったく同じ意味である。
 例えば僕の同級生で同じクラスだとあまね君という人がとても面白い人物だったのだが、この人はよくいきなり極端にふざけたことをいったりやったりしていたが、大抵、周りの友達は皆で「きちがい(英語でクレイジーの意味)」といって、彼の喜劇的な天才性を心から賞賛し、また、彼の人間性をほめたたえていたのである。そこには差別的文脈は寸分もない。からかいですらない。発想の考えられないほどの凄さや信じがたい位興味深いアイデアを予告なしに果敢に実行する勇気への、クラスのおおよそみんなからの、かれの哲学的コメディへの絶賛の決まり文句で、である。磐城方言とまで言えるかどうかは、僕は北茨城市民なので、知らないけども。
 アップル社のCMでまさにそういう文脈でこの語が使われているが、つまりこの表現って、置かれる文脈で意味がまるで違うのである。

 なお、これだけではない。僕の同級生のある親友は、なんと、この高校をあとから「あのきちがい高校」と呼んでいた。ちなみに彼はいわき市の南の方にある田人町たびと まち出身。これはみんな特別なほど個性豊かだったよね、なる共通認識を内包する絶妙の誉め言葉なのだろう、最大限優等生的によく解釈すればきっと。まぁ変なやつらだらけだった、いわき圏でしばしばいわれているほど全き選良でもなんでもなく、単に中学時点で少々勉強できたのが集まってるんではあるんだろうがそんなの或る意味大したことでもないんだろうけどね、という実態とのギャップで、若干の謙遜かそれをメタ認知しつつ、鋭い批評こみの風刺も入っていた気がするが。特に或る種の硬派っぽい突き抜けた独特さ、いわゆる旧制中学の蛮カラっぽいものを伴っていた、男子校時代のとある校風へのそれも、一定配分で入っていた気がするが。今となってはBTSがサイモン・ヴィーゼンタール・センターに怒られた時の衣装くらいでしかみられないほど珍しいのかもしれないが、3年間みんな学ランだった気がするが。気がするがってのは韻ふんでるだけで実際そうでしたが。無論、かれのその発言時、思春期をほぼ同じ環境ですごした僕にしか、この語の微妙さは伝わってなかったと思うが。
 僕の世代だけだったか、あるいは奇貨の気がそれなりの引力で結集していたともいえる美術部周りだけだったかはわからないが、面白おかしな仲間たちへの、ある種の愛称としても聞くことができなくもない。うすた京介の漫画『すごいよ!! マサルさん』でいう、「わかめ高校」的な。

 はたまた、僕がもっと子供だった頃の話。小学4年とかのとき『リッジレーサー』というナムコ社の出していたプレステ1のレースゲーム・ソフトを同じクラスの野中くんちでやっていた所、逆走すると「(なんちゃらかんちゃら)ユア、クレイジー!」といわれる。おいどうした、気が狂ったか! というクルーからの指摘の意味なんだろうが、これも、決して差別表現ではない。

 じゃあツイッター社という場所だが。これをきのう、僕がモギケンのティクトクで、今まで人生で見た中で一番面白いたぐいの動画(通称『ジャパンは日本ウェーイ動画』)を見た為、非常に感動し、とあるツイート内で、最大限の誉め言葉として使った(『東京五輪の要らない応援団』)。きちがい、クレイジーをそういう文脈で置くことは、日本に限らず米国でもよくある筈なので、決して一般的ではない表現とは言えない筈である。実際、ティクトクの方でも、コメント欄で「狂ってるやん」と関西弁のひとが言っているのがみえた。

 そうしたらである。

 きのうの夜、マリコなんちゃらという人に絡まれ、正確にいうと、最初その人が、モギケンの大衆迎合的な言動に同調する様な感じで、「知識人」なるものを皮肉で侮辱する様な歌詞をツイートしてたんで、そういう反知性主義は本当にこの国を終わらせている原因です、と教えた。教えてさしあげた。事実なんだからしょうがない。衆愚状態の都政とか、国政とか、或いは進次郎語録とかみてて、誰でも気づけるはず現状のお話でしかない。むしろ進次郎語録(未刊だが通称『進次郎回文録』)をみながら、温室効果ガス削減46%がおぼろげながら浮かんできたんですとかいって(科学的根拠が期待できないらしいどころか、白昼夢ですら一切ない。ただのインタビューアーの前で粋がりたいだけの適当感)、日本スゴーイウェーイとか言えているとすれば、その人は真剣に人生を考え直すべきにちがいない。彼を毎度、ほとんど公害で国政へ送り出してきている神奈川県横須賀市民の多数派には特にいえる事だ。
 そしたらこのマリコという人は、明らかに私のことを誤解しまくっていた。単に私を誤解しまくるばかりか、モギケンに対してもかなり信仰? に近い言動をしており、私と全然違う見方をしているのは明らかだった。僕はモギケンを現代の悪党の第一人者だと感じており、毎度、これは困った、やめてほしいと思いながら、かれが国へろくでもない誤導をしている場合へ特に限って、公共の利害を図る観点からかれの不公徳に該当するあやまった質的言動をやむをえず注意しているのである。例えば現時点でコロナ禍で人がしにまくってるのに別事象だーとか意味不明な論理構成で、その最悪の地点・東京で五輪を強行しようとするとかである。個人的意見に留まっているとかならまだしも、どうみても国や国際単位で公害度が甚だ高いのにおおやけにおこなわれている国への提言を目前にみつつ、それを放置していいものだろうか。放置すると自分まで被害者になる。通常の良識があれば、何らかの仕方で、それはこういう点でおかしいのではないか、と、おおやけに理非を評論するのが筋ではないだろうか。そして僕としては、ツイッターか、その辺しかそういう公共の意見を言う場がないので、やむを得ず彼へ返信していた。とてもとても苦痛だけど。私には何の利益も功績もなければ、単に勉強やしごとの時間が削られ時間がひたすら無駄になるばかりで、ここ数年毎日これで悩んで苦しんでいる。本当に。義務感で、どうせ馬を指して鹿と為されるだけというか、ツイッターなどで日本人の殆ど占める匿名衆愚に悪意ある誤読で絡まれるだけで、侮辱も名誉毀損も殺害予告すら頻繁に、もしくは毎日例外ないと言っていい頻度でよくされるのだし、ウェーイ系モギケン当人も反省しないだろうに、武士道で、嫌々いってんのである。義を見てせざるは勇無きなりで。『孟子』で。
 じゃあみなけりゃいいじゃんという話かと思うだろうが、現に、国単位で、政府に口利きしている人がモギケンなので。かれは三浦瑠璃とか枝野幸男とかと友人で、鳩山由紀夫とは具体的に組んですらいる。東アジア共同体研究所うんちゃらで。しかもリアルに記述式の受験を半ば強制力を働かせる形で、ツイッターご意見番みたいな感じで、すでに決まっていたのに途中で中止させていた。しぬほど炎上させて。それで受験生も混乱したろうし、国の制度を変な向きに歪ませてしまった。考えてみて欲しいのだが、記述式がある方が、ないよりはましである。単なるパターン暗記ではなく、思考力の検査として。だとすれば、中途半端な記述式ならダメーとか単なる幼稚でひねくれた子供じみた事をいって、途中でやめさせたモギケンが悪いのである。これも、私は再三ツイッターで注意していたのだが、モギケン一味(フォロワーと信者ら)はだーれもそれをききいれることなく、結局、文科省へソーシャルメディア世論を誘導して脅すような感じで、かれらは記述式の導入を中止させてしまったのである。国際学術社会はいうまでもなく単なる時代へもおおはばに逆行する形で。

 マリコという人は、こういってよければ、純然たるモギケン信者の一味であろうと思われた。色々言動みるに、ほぼ確実にその変種だろう。そんな彼女の偏見だと、私も茂木真理教信者の部類にみえていたらしい。末恐ろしくまた猛烈に的を外している間違いである。私はモギケン信者どころではない。茂木健一郎という人を悪党と思っているんである。が、私は少なくとも基本として上品な人間らしいので、その悪党さんへ丁寧な言葉づかいで接してきているのである。これは本当に。
 私は親しい周りの人に「あなたは優しすぎる。それが心配だ」と言われる。また、高校の親友には「(鈴木さんが)怒った場面を見た事がない」とも言われた。親友に怒った試しがないは完全に本当である。要は余程非道で不当な目にでも合わなければ私は怒らないわけで、親友ともあろうものなら私へそんなひどい目に合わせることはまずなかったからである。さもなければ親友になっていない。しかも、実際に私はとても優しい方ではないかと自分でも思う。精密にいうと、私は他人に優しくしかしない。ただその優しさに、気に入った人へとそうでない人への間でかなりの差があるだけだ。そもそも現時点で、私がどんな経緯で今の恋人とつきあうことになったかを知ったら、世間の人は、余程性根が曲がったひねくれた悪解釈するやつでもなければほとんど例外なく、それを一様に認める可能性があるほどだ。具体的にいうと、私の今の恋人は、自傷や自殺未遂をしていた精神障害1級の人であり、彼女は学校や社会や会社や医者や家族からいじめられてそうなっていたのであり、私はその状態を或るSNSで見つけて、この人を助けてあげなければならないのではないか、という善意のもとで、純粋に精神的に励ましていたら(なぜ純粋に精神的といえるかなら10年近く経ってもまだ1度も会っていない。ぜんぶ文通)、なんか知らんけど恋人かの様になってしまったにすぎず。つまりその人にすら、あなたは優しい、と、たまに喧嘩しようがなんだろうがかなりの頻度でお決まりの如くよく言われているのだから確かにそうなのかもしれないのだし、SNSだのなんだので色んな人間と接しててかなり真剣によく言われるので、実際そういう傾向がきっとあるのだろう。しかも問題なのはそれがある標準からみて、「優しすぎる」こと、思いやりがありすぎること、みたいであるらしい。
 確かに、自分は人の心がよくわかるどころか分かりすぎるので、人類界を構成する人間たちの性根がよく見え透いていて、一般にヒト科の生物が他の哺乳類同然に利己的だと十分に知っているがゆえ、ヒト科なるものって根っからこすっからく他人の善意を平気で踏みにじるか自分だけ得しようとずるいのが多く、余りいい生物とはいえないと感じていて、嫌いなのである。一部の例外として聖人と呼ばれる少々ましとされる人々はいるものの、僕もその部類だろうなとは彼らには多少共感できるから感じるが、だからって、聖人たちのなかでも、倫理的見地からかなりお前らいってる事おかしいだろう、と思うのもいるので、同じ仲間とは感じられない。ヒト科そのものが僕には、心のレベルで、外部の生命体なのである。

 であるから、私が悪人中の悪人だなーとおもう相手へも、相手がヒト科であるからには、ヒト科のなかでは上等の部類とされるたぐいの、紳士的なり文明的で非常に丁寧かつ優しい対応をしているのである。さもないとヒト科への対応としては変になるので。これが事実だろう。そしてその一人がモギケンなのである。現時点で。これが私の側の視野である。

 したっけこのマリコは、私の言動をまるで誤解しているばかりか、意図も全然よみとれていないので、なにいってんだろうな、と感じた。というかここまで読解力とか世知とかなくて、どうも私より年上ぽいし、大丈夫なのかなと感じた。簡単に詐欺られている様にしか見えない。モギケンなんて表向きいってる事と内側で考えている事が違う場面なんて、観察してたらよくあるのに、そういうのを全然みぬけていない。しいていえば「都会ずれ」領域を全く知らないとでもいおうか。東京圏なんて生き馬の目を射抜くどころか、道端のホームレスを撲殺する様な社会*1であり、その上を借金踏み倒し皇族が大勢の従者つけて黒塗りのトヨタ最高車(特別仕様)でブイブイしている。想像できるかぎり都市が荒廃しきった、史上最悪の場の一つである。人倫面で。そういう建前と本音が織姫と彦星ほど乖離している場で、一体全体、誰が人の言葉面をそのまま受け取っているのだろう。これぞ、言葉の隠された意味(行間の含みや、逆説的な修辞など)をうけとりづらい自閉症スペクトラムだかアスペルガー症候群だかの人達とかが一番困る状況であるが、京都弁でおいでやすが帰れ、ブブヅケどうどすが去れみたいな意味で使われているという根拠がないとはいえない風説があるものの(表向きの言葉遣いとは別にそういう心の読みあいみたいな、非京都人には疲れ切るギスギスとした雰囲気が、京都市界隈の社会一般にあるのは事実)、そこらのリアル京都人は普通にストレートに差別表現で一般関東人を侮辱してくるので、どちらにしても都会のすれっからし性悪こと通称「イケズ」どもには、誰でもおおかれすくなかれ困るのである。

*1
 2020年11月16日午前4時ごろ、路上生活をしていたとみられる大林三佐子さん(64)が、東京都渋谷区内のバス停で男に頭を殴られて死亡した。所持金はわずか8円。最終バスが通り過ぎた夜半に現れ、人目をしのぶように夜明けまで過ごしていた生活困窮者の女性が、なぜ暴力の標的にされなければならなかったのか。
『渋谷路上生活者死亡事件 所持金わずか8円の女性が襲われた「22センチ」のバス停ベンチ〈AERA〉』文/編集部・渡辺豪 ※AERAオンライン限定記事

 であるから、僕は思春期・青年期にそういうザ都会の東京社会にもう完璧と言ってもいい位慣れているので、大抵相手が何言おうがはい(言葉面はそうですが)、と二重三重に受け取れるのであるが、このマリコという人はどうもそうではない。モギケンが表向きいってる事を文脈や含意を読まず、そのまま受け取っているらしいのである。

 だから実に面倒だったのだが、これもまた私の親切さのために半日近くもかけて説明してしまった。『あなたとわたしの知性観、人間観の違い』。これを説明した間、本来なら私は夕食をたべ、悠々とコーヒーだかお紅茶だか八女むぎ茶だかをちょっぴりのみのみ、ぷえーとかいって、ドラクエ11sの序盤を今日でXboxゲームパスの期限がきれるから、聖賢の姉妹が出てくるあたりまでもう1回やっとこうかなーとしていたはずが。潰れたのである。僕はどういうわけかドラクエ11sが酷く気に入ったのでこれで3回目やってんだけど。しかも1回目はレベル99までやった。
 これは余談だが、なんというのか人物造形がとてもうまいと思うのである。特にシルビア。凄くいい人だし、面白い。今はやりの性差自由なおかまキャラで。しかも、英語版でもやったが、日本語版の出来の方が、言葉のこまかい表現、詩劇としてはるかにいい。普通に感動するレベル。特に世界破滅後で、旅芸人シルビアさんが皆を励ます旅に出るところ。あと、地味にカミュの兄妹愛の話もいいし、まぁよかれあしかれこれ以外で、マルティナ関連で性的なネタが多いところは堀井節のある種の暗面が出過ぎてて大人向けかなーと思うが。勿論、そこに所詮がJサブカルJRPGに最適化されてて、一般フェミ外人には受け付けないような、もとは鳥山明的なものだったが今となってはガラパってるオタッキー感も相当ある。具体的にいうと性のモノ化が女性に限定して行われることが多い。ただ私は大人なので、しかも偶像崇拝者でもいわゆる萌えオタクでもないので、それを見ても、はい、また来たね、このネタとしか思わないので。メタ認知で。ドラクエでの性の扱い方って、鳥山漫画での女性観、つまり世間的に抵抗はしているものの色事に負ける仙人風爺さんが出てくるみたいな滑稽味のある古典中国小説風のと完全に同レベルだから、文脈として慣れていて自分はそこまで不快ではないが、それでも、娼婦もどき(ある種の立ちんぼ、ぱふぱふ関連娘)の立ち位置を余りに必然的かつ不意に登場させすぎかとは思う。これは、国内であれ国外であれ、文化や家庭、個人によってはタブーになるわけだから注意が足りないのと、そもそも関西弁・東京弁は平気で普通に使うのに、純関東弁は田舎者へ差別的にあてがうなど、言語観が淡路人(堀井雄二さん)そのもので実に人間性を毀損するものだから、これについては直接メールでやめてほしいなーといったけどスクエニに。関東・南東北方言を傲慢な関西人・東京人目線で勝手に差別的文脈に置かれるのは、そこで生まれ育った子供からのドラクエファンとして耐え難いんですけど、わざわざ買って遊んでるのに、みたいな言い方で。

 で、本筋にもどるが、このマリコ氏とのやりとりで、僕は酷くうんざりした。
 明らかに知的質の低い人物と、私が同列の扱いをされてるのは、私には迷惑しかないのが自明であったし、具体的にいうと、誰だって悪党と同列で評価されたらいやなのではないだろうか。あなたがいきなり猟奇殺人者と何もかも根本から同列の存在でしょ? っていわれたら、いやいや、犯罪やめてほしいと思ってます、としかならないのではないか。大体これと似た様な感じを受けた。
 五輪やめてほしいなー、福島側だし、福島治してほしい、というか、はなから原発公害やめてほしい。これが常磐圏の一般世論。そこに上から目線のよこしまな偏見混じりの凄まじい無知で田舎差別三昧してくる悪辣な暴徒なのが東京人・南関人一般の言質から見ての常態だが、そのなかにあって一番たちのわるいのがコロナ禍賄賂五輪を強行しようとしてる人達であるのは、これまた自明ではないだろうか。論証の必要があるレベルの議論ですらない。だって目の前で人がバタバタ死んでて医療崩壊しそう、正確にはもうしてますね、って状態が今そこにあって自宅でうーんうーんと唸っていたのである。都民って。コロナった都民。当然、東京がふるさと荒らしたせいで福島にまだ帰れない避難者も界隈にふくまれている。それを横目にみながら五輪は別だからーって、どうやったら考えられるのか疑問でしかない。だがモギケンがその急先鋒なのである。旗振り役なのである。タオルふってた。上記動画で。NAqALの。凄い「きちがい」「クレイジー」ぶりなのは、これもまたまた自明ではないだろうか。つか誉め言葉の最上級としてはそれ以外何も置けない。逆にこれ以外でどんな形容が望ましいのか教えていただきたい。天才だの秀才だのでは到底ありえないだろう、少なくとも。「最悪に凄い」とかだろうか。却って含意されている非人道的な喜劇という『日本はジャパンウェーイ』動画の批評的な状況が伝わり辛いのではないか。

 一体そしたらマリコとかいう人の相手をするだけでも、悲しいほど面倒なのに、それで疲れ切って倒れたが、失神同然の眠りから覚めて、つぎに、あー無限に誤解され下らない匿名モブから誹謗の返信きまくるのめんどくさいからツイート全部消すか(毎回そうなるからよく僕は全部消している)、と思ってけさツイッター開いてみたらアカウントがロックされていた。

 は? と。

 もうね、これで僕はツイッターが、今までも短文厨・誹謗厨・殺害予告厨・ブロック魔はじめ底抜けに暗愚で邪悪な連中ばかりだし運営の対応も実にたちが悪いし大嫌いだったけど、いよいよ、憎悪とか怨念とか超えて、同じ人間の仲間だ、とは一切おもえなくなりました。
 よって、二度と私はツイッターで、自分の意見を公言することはないであろう。マリコという人へ、あなたこういう点で私やわたしの人間観を誤解してますけど、というべき部分はまだ無数に残っていた。だからそれについてだけ書いてもう彼女への返信は終わりにしたいとおもっていたが、それらを全て懇切丁寧にやらせる以前に、まーた文脈を読まず、個々の単語だけで不当な言葉狩りロックとかしてくるだろうから、とんでもないSNSである。ツイッター。
 いいですか、言語表現を規制してんですよ?

 言葉狩り。

 言葉狩りSNSってあっていいの。表現の自由がある国で。ツイッターというソーシャルメディアがこれです。
 クレイジーと書いたらセーフ。きちがいと書いたらアウト。
 どういうこと? 誉めてんだけど。褒めて遣わしてんだけど。おほめ召してるんだけど。まじで。

 いわき方言を学べと。いわき方言どころか、バンコー、いわこー表現を学べと。真剣に。あまねの周りで。日々。冗談ぬきで。天才に対して天才といってなにがわるいのか。気違いじみている、という形容句は、本物の天才かはさておき、どうみても傑作的表現の一種にあてがったときは、普通では考えられないくらい凄い、という純然たる誉め言葉なのである。
 モギケンは精神障害者とされる状況にある方でしょうか。違うんじゃないですか。だったら、きちがいじみている、狂ってるやん、と彼の『日本はジャパンウェーイ』動画にいうのは、差別表現であるはずがない。あらゆる状況をかんがみての、かれの表現への最大限の賛辞なの。最高敬語表現の一種じゃなかったらなんなのか。若者言葉でいえば「鬼ヤバイ」とか「神ってる」とか、一般でもつかわれるのなら「やばすぎる」とまったく同じ部類での、通常のつかわれかたです。ディスイズクレイジーって。きちがいすぎるて。なんらそこには差別はない。純粋に、これ凄すぎるな、常識を遥かに越えた次元にあるな、お笑いとして、としか言ってないのである。

 つか、スティーブジョブスのCMでもみとけ。ツイッター社。ツイッタージャパン社の社長どの。まじで。

『アップル(Apple)CM クレイジーな人たちがいる』

 一体全体東京のテレビ業界みたいな陳腐な発想で、文脈を省みず表現規制とか、そういう幼稚な東京界と一緒にしないでいただきたい。わたしやジョブスやアップルやいわき人たちを。その他の若者言葉を。あるいは修辞技法を、多義語を。僕なんざ「精神障害なるもの」を固定的カテゴリーや、差別の指標として信じてすらまったくない。だからそれでいうと1級判定されてる女性とつきあってんである。精神科医が米国で勝手に差別分類を作ってるとしか思えないし、寧ろ別の意味でクレイジーなのはその米国の精神科医たちだといわざるをえまい。人権を知りつつ、精神障害なんて言えた義理だろうか。なんで標準型の人間なんてどこにもいないのに、あるタイプの脳の持ち主だけ、障害あつかいなのか。謎すぎ。ただの差別。
 よって、私はクレイジーだのきちがいだのといった表現を、差別的な文意で使う事は「絶対に」ないといっていい。万一ありえても、そういう差別的人間を虚構の例示として表象するような場面など、限定的な場面でしかないだろう。僕は高校のとき知的障害者の福祉施設へボランティア行ったが、ほかの人類と同じ唯の人間だなと感じた。同じ事はだれもにいえる。まともな人間というのがまず多数派で存在しない場所が東京である。だから都知事が、公約詐欺でうそばっかりつくあんなのばっかなのである。小池百合子は原発0といいながら2期目も再稼働させようとしているし、どこが脱原発知事なのか。そしてそんな嘘つきを再選させている都民一般も、完全にクレイジーでありきちがいの部類なのは間違いないだろう――この場合、皮肉であって誉め言葉とはかぎらない。このように言葉は置かれる文脈で多義的なのである。こんなのわざわざ僕に言われなくても。小学生級の国語のお話ではないか。彼ら都民、そのうち、特にツイッタージャパン社が自分達を中心に置いて、まともな人、良心を持つ人を言葉狩りしているのである。言葉は置かれた文脈で意味が違う、多義性があるという、当たり前のことを、国語でちゃんと学んでほしい。勝手な主観で言葉狩りなどあってはならない。逆に、悪意のある表現または誤った差別的表現なのは文学的にどう脱構築しても完全に否定しきれない様な場合に、例えば例示としての「人種差別的な考えを持つ者の描写」とかではなく、単なる明治時代の征韓論者みたいな考えの某社長による直接ヘイト規制法だの国際人権規約に触れる「マスコミは汚鮮されている発言」の様なのだが、それを政府ぐるみで公然と放置してる国民が今の日本人だ、ということをしるべきだ。というかそれでいったら皇室も朝鮮系だと今上上皇自身が仰せになっているではないか。桓武天皇の母方がそうだったって『続日本紀』にでてて、韓国にゆかりを感じると。それだけ日本人一般の読解力が死ぬほど低いので、ある意味で、日本の言論界ってすでに終わってしまっているのである。

 今後も、言葉狩りとか、ポルポトじみた現象がいつでもどこでも起きうるので、この案件は時代の一最先端で起きた最重要事変であり、私の考えでは、この「クレイジーをきちがいと訳したらアカウントロック事変(通称「クレイジー和訳言葉狩り事変」)」以後、日本語圏っていろんな意味で終了していくと思う。だって英語でクレイジーって書けば消されないんですよ? じゃあだれだって英語つかいたいんじゃないか。僕だって。日本人一般のなかでの母国語の文意の理解力が尋常じゃなく低まっており、その中では、少しでも、わずかでも、修辞を用いる複雑度をともなう言動をした途端、自称普通の衆愚が大勢でよってたかって言葉狩りをしてしまう。ゆとり若害によるものだけだろうか。つめこみ壮害だの団塊老害だのも総じてそのレベルになってんじゃないか。倫理規定ガタガタゆえ平気で東京中華思想によって全国を地方あつかいで田舎蔑視の報道だか番組作りはする癖に、無駄に言葉狩りばかりしている都内の通俗的に自堕落なテレビみたいにね。ユーチューブとかも同じではないだろうか。コメントで「自傷」と書いたら、単純に医学的な文意に関わらず消してくるだろう。そのくせ動画内でジショウといってても消されない。つまり、機械的判定で『1984』風に消しているわけだが、どこぞの真理省さんは、隠語発達でもさせたいんだろうか。ツイッターの場合それだけではなく、見てるツイッタラーどもが惨めなまでに悪意で満ちていて、しかも、言葉狩りを平気でしてしまうほど日本語の読解力が恐ろしく低いのである。
 そういう衆愚を大量に抱えてしまった国がどうなるかの一つの没落期モデルが、今後の日本の必然的な展開ではないだろうか。だとしたらそんな連中へ何を言っても無駄であって、イエスを衆愚が磔刑にしたよう逆切れ標的にされるだけ、できるのは自分個人の被害を最小化することだけだ。ある種の人が英語圏シンガポールへ逃げるのは、この国際良識主義の観点からは、総合すると、全く正しい判断である。だが国内残留組の方は、衆愚に高が言葉狩りごときでいつでも標的にされ、下手するとすでに現実化した日本学術会議弾圧級のクメールルージュなり焚書坑儒なり退廃芸術展なりで殺される可能性があり、SNSなどはなるだけ早く離脱して一切絶たないと、どんな目に遭ってもおかしくない。日本はそうなってしまった。直接の原因としては、ひろゆき一味が最初の原因だったと思う。匿名衆愚カルチャーを確立させてきたのは、具体的に彼の2chだからである。かれらが世代ごと寿命でお陀仏後もこの最悪の状況は惰性でしばらく続くので、子供の自殺率も世界最悪のままだろうし、世界最低級の少子化も長らく続くであろう。そこで生き延びていけるのは凄まじい馬鹿(「自称普通の日本人」)か、そういう馬鹿を洗脳搾取する邪悪な人柄だけだろうし(これが「インフルエンサー」)。逆に良心のある人から「変わり者」扱いされ暴徒のイジメ標的となって死ぬ。どんだけ賢者だろうがどんだけ聖人だろうがどんだけ天才だろうがである。むしろそうであればあるだけ真っ先につぶされる。その後の日本が没落どころかこの世から滅びた悪例としてしか記憶されないのも、凡そ間違いないはずだ。だって居残るのが馬鹿と悪人だけの国なのである、そこって。

 私はその状況を変え得る可能性がわずかでも残っているなら戦うべきかと思っていた。だからこうやって、同類が読める文体で、純粋に公益の為に表現していたのだ。広告は? 今までのネット興亡記の経験上、ブログサービスの継続性って、収益が出るかどうかで運営側が決定するので、私の死後も暫く(あるいはできるだけ長く)残るだろう場としてグーグル文化圏にこれをつくってるわけだが、つまりは運営側の為なのである。私には基本的に、おどろくほど金が全く入ってこないし、単なる形式である。現時点で1か月に1円もアドセンス収益なるものがないので、1万だか8000円だかに到達しないとふりこまれないしくみのため、一生の間、私にはこれを書いて皆に読ませるだけがんばって何度も書き直し気を使いまくって読者を楽しませてようとも、一切、お礼がこない可能性がたかい。お賽銭よりはるかに儲からないし、スズメより遥かに小さなミジンコの涙ですらまるでこないのである。それだけ高尚な目的を持つ言論って(高尚な目的しかない。私は)、資本主義社会では不条理な待遇をされるものなのにもかかわらず、管理の費用より収益の方が大きい、と判断されないかぎり、運営側が維持し続ける事はまずないのが、資本主義下での表現の場である。実にろくでもない。
 しかも、きのうと今日で気づいたのは、SNSって終わってるんだな、という話。
 そして日本も既に終わった国だ。民衆が余りにたちが悪いからだ。そこに復活の方法などない。民衆がまともな国なら政府や会社なんて立て直せるだろう。が。根が腐ってしまっているところで植物を育てようとしても無理なのと一緒で、民衆という土台が悪徳で心から染まりきっているこの国で、前線復帰の道などない。
 あとは、亡国処理期が続くだけだ。よってこのブログが記録しているのも、単に、ある国が終了後の末路、という話に、後世から見てきっとなるのだろう。ヘロドトスが『歴史』でそういう仕事をしたように。私の文学的使命も恐らく、その時期の破滅的な日本国なるものの現場のありさまを、一人の記録者としてのちの世へ正確に伝えていくことなのかもしれない。未来の命の為に。