2021年2月6日

現実を妄念にあてはめてみる世知の不足した若害としての年齢主義者の分析

若害がよくいうせりふに、「何々歳にもなって情けない」という年齢主義による中傷の仕方がある。これは年齢に応じた発達があり、それは常に一定で、典型的でなければならず、全員が一様にそれを達成して当然だ、さもなければ人間失格でどう中傷されようが当人の自己責任、とする、ある観念論に基づいている。これを年齢主義観念論といえる。
 そして若害はこの年齢主義観念論の上に或る妄想を持っており、それはかれらの理想的もしくは幻想の常識的な人生像に基づいている。だが実際に齢を重ねてきた人々が知っていることの一つに、人生は不確定に外部要因がある上に、常に誤りなく道を辿りきれるとも限らない。人間万事塞翁が馬と言いうるほど実人生では予想外の例外的場面が多く、むしろその中で正道をなんの過ちもなく辿りきれた者がいれば、極めて希にいる意志の強い高徳者でなければ奇跡か幸運によっている。なにしろ現実は干渉によって体系を変えてしまう他者や物事の集まりなので、複雑系の典型例である。当人自身の努力や、修身でまったく進路変更なく、ただ一つの我執が完成できる場合もきわめて希にはあるだろうが、もし一度も進路変更なくなんらかの目的を達成したとして、大抵のとき周りの条件がよかった部分が大きいだろう。尤もその目的がはじめから正しかったとも限らないとして。
 つまり若害が使いがちな年齢主義観念論は、基本的に当人たちの空想上のもの、しかも大分片寄った現実解釈としては単純すぎる妄念の投影なのである。

 試しに過去の聖者を辿ってみるがいい。その誰も総じて、彼らの若い頃の志をそのまま遂げられた者はないだろう。かれらは紆余曲折を経て、ある偶然に基づいて特定の人格を得た人々なのである。
 単線的人生観ですべてを解釈し平気でいる人たちは、様々な要素の複雑に絡み合っている社会についてのみならず、極めて把握するのが難しい、如何様でもありうる人間理解が欠けているのだ。

 浅はかな物の見方、人間性への極めて片寄った観念や、無理解が、若害の使いがちな年齢による人格特性への差別的言動だ。

 若害が若者のうち、不徳な人々の総称とすれば、現代日本人のうちの若害一般は総じて漫画、アニメなどかれらが親しんでいる世俗的文物から大人とみなされる年上に対しなんらかの漫画家やアニメーター、出版屋、あるいはその他の媒体、かぎられた現実経験などから特定妄念を仕込まれていると想定され、それは往々にして現実のありさまではない。このため若害は大幅に人間を見誤り、他人の失敗へ不寛容になる。世界は漫画の通りにできていないからだ。
 実際にかれらがかつて非難していた不徳な年上と同じ年齢に達した頃、彼らは新たな若害から全く別の年齢主義観念論でやはり老害扱いされるのみならず、彼らが若い頃に当然そうなっている筈だった人徳にすら大抵、到達できないままだろう。現実は妄想より自分の理想を壊してくる現象で満ちているからだし、彼らの中高年になる頃には既に色々な状況は多かれ少なかれ大幅に変わってしまっているのだから。

 この若害の一部には、さらに若い人たちや幼い人たちがなんらかの個性を持っている際、かれらへ不躾な言い方で同じ年齢主義に基づく差別を行う傾向もあるかもしれない。それらがでてくる要因が、もともと自分たちの勝手な観念論を他人の年齢へ当てはめることによるのだから、そういった人格毀損的態度が出てくるのは必然ともいえる。

 若益といえる人は、老益、壮益といえる人たちと同じく、年齢主義観念論をその様な過ちに満ちた妄想として以外、もっと複雑な現実解釈へ、無理に当てはめようとはしないだろう。人間理解の複雑系にとって殆ど役立たずの型にはまった定規がそれなのだから。