2021年2月6日

哲学の才能のありか

中学の時にある同級生女子に、「考えすぎだよ」といわれた。この人のいっている事の意味が自分は全くわからなかった。しかし今にしてみるととてもよくわかる。要は彼女は自分と持っている頭脳の性能が違ったのだ。

  コンピューターの中央演算装置や記憶装置など脳には既存の性能があり、それは遺伝したものについては大まかに約半分ほど両親の物を受け継いでいる。そして自分の脳の性能は彼女のそれより基本的性能(少なくとも基礎的な言語知能)に於いて恐らく高く、彼女には単純計算しかできない場面で、自分は数多くの事を同時に捉えられ、且つ、計算量も多く計算速度も速かったのだろう。
 このため自分と同年齢のその人に比べ、自分の思考は彼女にはさも「考えすぎ」ているかの様にみえたのだろう。しかし自分側は単に素直に物をみて素直に何か発言していただけであった。
 この事象を単純化すると、恐らくIQなどに既存の差があり、それは自分の普段の思考力が彼女より高かったと示しているのだろう。

 自分は確かに哲学的思索を子供の頃からするのを好んでいたというか自然にやっていた。3歳の時点で母の隣でお昼寝させられる時、なぜ自分は眠くないのにここで寝させられねばならないのか、いや、いまからみれば暑苦しい夏場とかだから自分の世話に疲れて母が午後のひととき休みたかっただけなのに違いないが、そのときなぜ自分は苦しいのに昼寝を強要させられてまで生まれてこなければならなかったのか? と横になってごろごろさせられながら寝息を立てる母の隣で考えていた。
 思考力は多分に生まれつき付与されており、それが高い側と低い側は、次第に会話も成り立たないほどの開きができてくる。
 自分がツイッターで経験したのはまさにそれで、一見似た日本語を話している様に見えるが、実際にはほかの一般ツイッター民となんの会話もなりたたないほど思考力が違うのだった。精確にいうと、自分に絡んできているこれらの生命体は違う生物、異星人なのではないかと感じた。そしてこの差は、あの中学の時の或る女子の言葉の時点で既に(この人なにいってるんだろう?)という自分側の実感として、決定的差ができつつあったものの拡大版だった。

 その天地開闢の途中にいる現時点で、自分はなにゆえ、哲学、芸術制作など特定分野でしか自分の既存の知能の性能が存分に使い切ったと感じられないか、過去の経験からも悟る事になった。それはアリストテレスが『ニコマコス倫理学』で個性次第な幸福観について語ったとおり、生まれながらの個性としての身体性能差、生まれの差に由来した違いだったのだ。
 空を飛ぶ生物、地を這う或いはもぐる生物、野を駆ける生物がいる。自分は絵を描き或いは考える生物だったという事になる。
 自分にはツイッター民一般、特に短文厨がいっている「長い」というせりふが殆ど理解不能なのも、かれらの言語知能の性能が余りに自分のとは違うので、一度に処理できる思考の質量が愕然と違うのからなのだった。セレロン搭載の格安PC(自称モダン)が28コアのCPUを積んだマックプロに「速すぎるし、複雑な処理しすぎ! もっと遅くて単純なシングルタスクだけにした方が賢いと思うけどね」。仮に誰かが汎用バイオ程の性能であれ、この差は振り返ってみると生まれの差にすぎず端からあり、そうであるからこそ、アリストテレスもかの弟子プラトンも、哲学できる者は全体の一部の人達だけだとみなしていた。成程その奥深い専門知(これが倫理哲学の本体だ)については、思索の天稟をもつ少数者の為の貴族的分野であろう。実際、ツイッター短文厨の様な一部の日本人民衆は、140文字程で収まる思考の長さですら息切れしてしまっているのだから、彼らにも分かる内容に口語で噛み砕かれた箴言集または俳句集など短詩形のものを除けば、大抵の思想書や随筆を読むなど、生涯まともにできない仕業なのだろう。

 もし我々はDNAの塩基配列を後天的に既存の技で変えられないとして、後遺伝学的現象は表現形については遺伝の一部を別の形で化学修飾するかもしれない。
 基本が低性能の一般知能を遺伝していても、それを活かしきれば十分な哲学的成果を挙げる事もできようし、立派な性能も下らない事にしか使えなかった人達が過半だろう。単に生育で得た自己の身体的特徴だけでなく、いかに最新鋭の外部的道具でも、大衆動画製作者に完備マックプロを与えたり、匿名掲示板主に高速インターネットを使わせたり、無政府恐怖主義者にイギリス製武器を扱わせたりすればどんな使い方しかできないか、我々の歴史がまざまざと示している。もし同じ道具をガウタマ、イエスやカントらが十分応用できていれば、この世を今よりはるか生きるに値する場に変えられたに違いない。哲学の才能、つまり理想に差がもしあるとすれば、この理性と呼ばれる「自分の個性の使い道」によっている。いいかえれば、それは自他の主観性、意識への超認知の才能でもある。
 理性は生得的な知能と、後天的な努力の複合した働きで、その結果、低性能の一般知能でとりだされた立派な理想も、学をてらっている割に中身が下らない理想もある。IQの著しく高い人達が須らく人格者になるわけではない。
 聖人がごく少ないのはこの理性のよさに人によって大幅な差があるからだ。天与の性能を優れて使える人が十全に思考力、特に理想する力を発揮できた時、最もよい思い、最高善が発想され、それが道徳となって後生にも踏み行われる。