2021年1月13日

なぜ悪趣味を持ち上げ善い趣味を侮蔑するひとがいるのか

下賎な人達を褒めちぎっているひとというのは、それ自体が下賎だと気づいていない筈である。通常、ひとはその様な判定をしないので、なぜそういう行動を彼らがとるのか謎でしかなく、恐らく何か理由があるのだろう、と勝手に立派な理由をつけてしまいがちだ。
 だがこれは経験的にはまちがっている。愚か者は単に愚かだから下らない物を好み、下賎な人々へ平気で親しんでいるだけなのだから。

 この逆に、下賎な人達は立派な人達を腐す傾向もある。これは単に彼らと異質だからだ。高尚さ、偉大さ、深遠さは彼らには縁遠い。

 高貴さと下賎さは、こうして全く異なる世界に属し、両者がまじりあうことはない。しばしば両者は互いをより悪い趣味だと考えてもいる。そのうち一つは比較的正しいことが多い(つまり両者のうちどちらかが相手の価値観についてただの無知な場合がありうる)が、現実に、全く異なる角度、論点から物を見ており、絶対的価値づけの点でおよそ永久に合意がとりえないだろう例もある。
 例えばアイドル音楽の中で上等な物と、クラシック音楽の中でそうな物とは、根本的に後者の方が高貴なる出自を持っている(前者は大衆商業音楽だが後者は王侯貴族の為に作曲されてきた場合が多い)ものの、絶対的に属する世界が異なるので必ずしも相対化して上等下等を評価できないだろう。王侯貴族の大部分は消滅したし、彼らの音楽趣味も庶民の犠牲の上になりたったものであり、その大衆の方もすべて獣じみた卑猥さのみで生きているわけではないからだ。或いは心をこめた大衆歌の方が却って、単なる作曲技巧の洗練しか示していない器楽曲より、人間の望ましい音楽感覚についてよりよく語りえていることもあるだろう。

 似た様なことは、人物評にも当てはまるだろう。
 最後の将軍と死の商人を比べ、崇敬する天皇家へ禅譲した徳川慶喜の方が内乱罪や外患誘致罪を企んで私腹を肥やした坂本龍馬より高貴だったとは当然いえるが、だからといって後者の(小説などの影響で妄想の中で偶像視している)ファンの浅ましさの中にはなにかしらの目的があり、一般的な良識感覚ではないものの、そのファンたちの間では流通しているやくざ内での格づけなのだから。不良度が高い方が偉い、と考える人達は、水戸学尊王論の生まれてきた文化的土壌や、外敵に囲まれ国を狙われているなか統一政権下での平和確立の為の王侯貴族間の必然的な国譲りに想像も及びもつかないばかりか、暴力を振るって相手をやっつけた方が偉い、逃げるのは弱いからだ、弱い者は卑しい、と安直な蛮族風に勝手な類推で思いなし(現実に兵力も近代的軍備も十分あったといえる徳川軍の相対的強弱と関係なく)、人徳人品について全く異なる評価基準を恥じもしないのである。

 この世には不良や外道がいて、かれらはかれらの世界をもっているが、その実態について多くをうかがい知ることはできない。そして神々からみれば、いかに高潔なひとも不良の一種に過ぎない。
 一ついえるのは通常、都会人に多い高慢ちきな俗物主義も或る不良さの表れということだ。それは自分達の好みがほかより優れていると狂信しているからで、理由づけがただなんらかの社会的地位に過ぎないので、世俗的なのは却ってその人の判断なのである。そしてその種の俗物をうみだしてしまうのは、馬乗りによる弱肉強食が、慈悲深い勧善懲悪をまさってしまった誤った学歴文化のありかたである。