ツイッター短文厨は、文の中身(内容)や質に関わらず読書力が低く、短文しか陸に読めない(厨はここでは中坊を意味するネット俗語・厨房の略で、精神年齢の低い固執者の意味)。
一方、村上春樹は比較的長文厨に近く、短詩、箴言や掌編といった簡素化を苦手としている。
彼らはどちらも誤っており、文はその表面的な量にあたる長短ではなく、伝達される内容を含む伝達様式の質のみで判定されるべきだ。
内容量が多ければどれほど抽象化しても一定以上の長さになるし、だからといって様式の質次第で長さに中身が伴うわけではなくなる。
文の形式の冗長さはある内容の伝達を補うものでしかなく、過度に冗長であれば通常悪文といえるものの、思考の深度や事柄の複雑さに伴って情報伝達のミスを減らす必要性から或る文が一定以上の冗長さを要求していれば、そこで簡素さを求めるのはただのお門違いな愚かさの一種である。
短文厨は単に愚かなので中身の薄い短文しか読み取れない。よってその種の愚者に向け何かを伝えるには幼児に語る様にしなければならない。尤も愚者に好かれるのは賢者を遠ざけるに等しく、相手が失読症気味とか、何か用件伝達の必要など特別事情がなければ極力、相手に理解し難い量や様式でこちらを隠密化し愚かと思い込ませておいた方が得策だ。
また長文厨は基本的に活字中毒で、内容に関わらず文章の絶対量が多い方が望ましいとみなし、単なる煩瑣な冗長さも修辞、構文や言い回しに伴う言語流暢性の一種として好評し易い。そういった人へはとかく冗語を送りつけておけば概ね満足しているだろう。大抵の小説関係者はここに該当する。
短文厨や長文厨は伝達内容やその様式的質に注意を向けていないのだから真の文芸愛好家ではないし、少なくとも文を通じた哲学の糸口にも立てていない。