2020年12月22日

道徳哲学へ説教臭いという人は、倫理を単なる学問的知識より軽視している科学者同様、文明人としては性情がよくない

道徳を「説教臭い」などと嫌悪する人々は――私は道徳と呼ばれるものが単なる暴力を振るう人々による偽装である場合を除けば生まれてから一度もそう感じた事がないのだが――単に性が悪い。それで本能がおおよそ文明人たる理性より優越してしまい、反社会的で獣じみた利己的行動をとりたがるので、道徳に関することを忌避するのである。

 単なる科学者、科学学習者の類には、後自然学あるいは社会に関する知識体系でも最も総合的といえる倫理分野を軽侮している人が相当多く、飽くまで経験的にはだが、日本で理系と呼ばれる系統で教育されただけの人々は、ほぼ例外なくそうだといっていいほどの割合である。その意味でわが日本の理科関係者はおそらくほとんど全員が、ある種の狂気を持つ反社会性人格といってもいいのだから、恐ろしい。
 もとより倫理学に関心があれば、単なる科学の専門家に収まるはずもなく、全思想史の研究を越えて、哲学そのものを専攻した筈なのだから当然といえばそうなのだが。うらをかえせば脳の特徴差として、一般的な専門科学者はその分野の専門知識に秀でている代わり、多かれ少なかれ総合的な倫理面では、円満な人徳者に比べ劣っているだろう。

 科学者倫理の類が叫ばれて久しいが、アインシュタインを一代表者として人道犯罪を犯した科学専門屋に通例求められている研究倫理などいまだ高がしれたもので、論文の書き方、最大でも研究費の横領、不正流用、あるいは研究室内での嫌がらせ禁止くらいのものではないだろうか。学術会議に注意されるまで通常、科学や工学の悪用は各科学者もしくは教授と学生らに公然と行われてきている。利己心だけが発達した獣類同然の社会性しか持ち合わせない博士がいかに、人類全体を不幸のどん底に陥れてきたことだろう。大量破壊兵器、生化学兵器、遠隔操作系の武器、スパイウェア開発や、それらを用いた暗殺、私権侵害、大量虐殺の正当化は今も各国科学界で続いている。己どものもたらした致命的な原発公害を反省している科学者がいたら、なぜ集まって廃炉の声を挙げないのか?
 単なる優生学、人体実験だけでなく、資本主義や自由主義を正当化する人も、独裁傾向をもつ社会主義者や、政府の為の思想統制を行う共産主義者と同様にまた、多くの人類を犠牲にしつつ己の信じる新興宗教を頒布しているだけだ。民主主義という考え方も、多数派が常に単独または少数の賢者より暗愚であるかぎり、集団の横暴をさも正しいかのごとく言い繕う理屈に過ぎない。