昔、僕が行っていた工学院大学専門学校という所に斉藤君という青森からきていた友人がいた。
で、ある時何かの授業でデータのやり取りが必要で、メモリーカードをその場で借りた。次の時にそれを持ってくるのを忘れてしまい、「返してくださいよ~」と言われたのだが、僕はそのカードがてっきり300円くらいでコンビニやそこらに売ってるマイクロSDと同じ様なもんだろうと思って、次のとき持ってくりゃいいか、みたいに、あ、ごめんごめんって感じで流していた。
そしたら次の授業になったら、斉藤君は来なかった。そして永久に学校にこなかった。辞めてしまったのだ。僕はそれで永遠にメモリーカードを返す機会を失ってしまった。斉藤君の連絡先など知らない。後から近くのソフマップでその単なるSDカードをみたら3000円とかするのであった。
斉藤君は西新宿の松屋(新宿西口店)でバイトをしていた。その店の前を通った時に、「ここでバイトしてんすよ」とか言ってた気がする。
それと、「東京って蚊が多くないっすか?」と彼は言っていたのだけれども、恐らく藪蚊みたいなのをさしている筈なんだろうけど、僕は他の関東地方と変わらないんじゃないかな位に思って特に東京に蚊が多いとは感じておらず(彼の都内生活圏には多かったのかもしれないし、彼のふるさとの青森のどこかには蚊なんてそう居ないのかもしれない)、寧ろ僕の地元に比べるとゴキブリがやたらめったら出現率が激高なのが不快を通り越し、生活に無理だった――のち、僕がこの頃住んでいた東京の調布、京王多摩川で徹底密閉していた鉄筋コンクリートマンション3階某ワンルームを離れたのも、完璧に清潔にしていた筈なのに巨大Gがお風呂場からでたら突如、台所に1匹出現し、心的ショックが大きかったのがある。
斉藤君がいたころ専門学校の旅行で、多分、会津の山奥だったと思うけど、どっかの清流ぞいにあった旅館に、同期の人達で泊まった。みなが泊まる大部屋を、外でも散歩しようぜとぬけだし二人で歩いていたら川床を見つけた。そこが椅子とか畳とか置いてあるビヤガーデンみたいになっていたので、降りていって、なぜかビールと枝豆だったかをそこのお店の人に頼んで、椅子の方に座って飲んだ。僕は当時21歳くらいだが自分でお酒飲む様な習慣はなく、斉藤君もはたちになりたて位だった筈で、ここでジュースじゃなくて大人になったんだねぇ僕達も、みたいな感じで一休みするつもりだったのだろう。時期的に真夏だったと思う。段々夕方になる時間帯で、川床の下にある渓流は冷気と爽やかな音をたてており、時折吹いてくる風も、かき氷の暖簾を揺らしたり、日陰になっている川沿いに木々のざわめきを起こして風鈴までも鳴らし、すこぶる涼しく気分はよかった。気持ちいいねえとかいったら、斉藤君も「そうっすねえ」って言っており――1歳くらい僕の方が年上だからか、それとも僕が最たる水戸っぽとまではいかないかもしれないけど北茨城からきている関東人、東男なるもので、東京にも既に相当慣れていて割と堂々と振舞うのに比べ、斉藤君は標準語を使ってはいるけどいかにも青森人ぽく、上京したてでどこか自信がなく心許ない感じで、謙虚を通り越し、内心は決してそうではないんだろうけどしばしば言葉面に表れる限りでは自己卑下している様ですらあり、同級生だがなぜか僕へ終始敬語に近かった――そんな感じだった。
そこを出て旅館に帰ったら、既に夕食の御前が並べられており、すれっからしで意地悪な夜間部の講師らに「なんだよ~皆そろってるじゃないか」「遅れてきた罰ゲームしろ」などといちゃもんつけられ僕がえ? それはちょっととかいって隣の襖を開けるしぐさをしたら「アハハハ」「そこ布団はいってんだよ」「何やってんだよ~」とかいわれ、「もういいよ面白かったから」といわれた。あの講師らは世間的に天誅下した方がいいと今でも思う。別に時間に遅れてきたわけでもないのに、なんで万事あんなに偉そうに調子に乗っていやがったのだろうか。今風にいえばパワハラではないだろうか。僕的にも、二度と近づきたくない不良連中である。
一応2年間通って卒業はしたが、僕はその頃、建築士として独立するため最短ルートを辿るつもりでいて、一応日本で一番伝統のある工科系大学付属を選んだが(僕の父の学校・慶応大の初代卒業生で、東大初代総長・渡邊洪基の作った学校が工学院大)、そもそも僕はアカデミーなるものを嫌っていたし、今も余り重要ではないと感じているので、僕的にはあんまり好きではないが当代の名のある建築家・山本理顕のいる院まで繋がる内部進学ルートはあったのだけれども、さっさと離れてよかったと思っている。当時、僕が(将来僕ら次世代が超える事がなければ、恐らく)今世紀最高の建築家だと感じ弟子入りに行った妹島さんに「大学院まで行った方がいいんじゃないですか?」といわれたし、人生の先輩的もしくは建築界の偉人的には何らかの観点からその方が望ましい筈という忠告のつもりだったのだろうから、この言いつけは今もできたら守るべきなのかなと思っていなくはないけど、将来行くとすれば飽くまで独創に関わる芸術や建築系のではなく、自由教養の哲学系のにするつもりだ。無論、教授から変な癖のつけられない独学の方が、総合学といえる哲学にとってだって望ましいし、所詮は肩書きのシグナリング処世術程度にしか意味を持たないしぐさだろうけど。はたまた、芸術関連の事を大学で習おうとする人は全員、天才を潰されると考えていいだろうと思う。
斉藤君が学校から消え2年後くらいに、あるとき常磐線の各駅停車に乗っていたら、土浦あたりでどうも斉藤君じゃないのかなこれって人物が近くの席に乗ってきた。で、僕はメモリーカード返せてなくてごめんね、返したかったんだけど的に話しかけようかな、実際に返したいと内心思っていたら、なんか向こうも僕に気づいているんだけどスルーみたいな微妙な表情をしていた感じはしたが、お互いに別人かもしれないし、その斉藤君もどきの人は一瞬そういう顔をしてそのまま降りて行った。