2020年10月24日

全世界のどの国、どの都道府県へも、偏見を廃して差別やひいきを行わず等しく扱った上で、相手の美質から学び、汚点を避けるべき

関西地方の人達の視野が、彼らが伝統的に自分達を中華思想で「近畿」と称してきた通り、酷く狭く、いわば世間知らずで、今日では田舎者でもあり、なんと首都圏北部すらみえていないのでそもそも日本全体どころか諸外国を等しく見る能力が皆目ないのは、彼らの潜在的知能と閉鎖的風土の限界だろうと思う。
 京都人と称する人達と会話してみればすぐ分かる事で、彼らはなんでも京都京都と自分の事しか話さないほど甚だ極端な自己愛、そして虚栄心の権化である。
 これと似た性質を持っているのは自分の知る限り全世界で東京や大阪の人達だが、どちらも外の世界を見るだけの知能も、金銭的ゆとりもないのだ。
 
 京都は四方を山で囲まれていて、最初からドイナカといっていい山間に無理やり作られた、朝鮮人移民地区だった。山城国が旧国名なのは、風土の構造をよく現している。また山の所、こと「山戸」の国に似た場所を、天皇一味が遷都先に選んだのだろう。そこで中世懐古趣味に耽っていたら基本は視野が狭まる。一方大阪も、南側は一応大阪湾に面しているにしても、そこも海峡の奥まった所なので、開けた展望がある景観とはいえない。琵琶湖の水が都市生活で汚された末に注ぐ、それなりの規模の入り江の様な印象を受ける。
 そして大阪の人達もやはり府外への視野が薄く、常に大阪独特の話題ばかりするのだ。

 これらに比べると、東京も一応東京湾という入り江の奥にはある所だが、余りに千葉・神奈川の岬間の距離が離れているので、一見すると海に面しているかの様に見える。但し、東京人はそもそも海に関心がない。海運を無視している様に見える位で、視野は東京23区、こと干潟埋立地にばかりそそがれている。大半の東京人と話せば分かるが、そもそも彼らは自分達の置かれた地理を理解していない。これも一つの文化衝撃といえるだろうが、彼らは自分達が関東平野の南端に、家康によって埋め立てられた干潟の上にへばりついた住民だ、という自覚が全くない。世界全体を『ドラえもん』的住宅街と思っているのだ。確かに、現実に練馬区辺りの住宅街に生まれ育つと、少年期の徒歩の力でどれだけ走っていっても、日暮れまでに帰れる場所は全て、似たり寄ったりの住宅地だから、脳内にできあがる世界の全体図とは全てがそうだ、と思いこんでしまっても不思議はない。
 また、東京人一般はこぞって北海道、沖縄、グアム、ハワイや西洋に行きたがる。だが近隣圏を――そこがどれだけ立派でも――小馬鹿にしている。これは東京人一般の旅行目的が基本、他人に自慢する為のマウント目的な俗物消費だからである。インスタ映えといっていたが、正にそれで、羨望されたくて行く。所が、例えば私も含む茨城県側の人々が、こういった俗物旅行に行くという場面は、少なくとも私はまだ見ていない。確かに会社社長の家など裕福で海外旅行している場面もよく見るが、他人に自慢するインスタ映え目的とかでなく、当人達の事情や興味で行っている様にみえる。東京の消費志向は相当特殊だ。東京人の視野が非常に狭いのは、東京について知っている人なら皆分かると思うが、それは彼らの根底にこの俗物根性があるせいだ。彼らの「カッコイイ・カワイイ」「ダサい・キモイ」、昔でいう「粋」「野暮」の審美的判定は、他人本位の媚態を意味する。全て大衆に羨望される事が価値を持つ社会である。
 関西地方でも同様の俗物趣味が激しいといわれている地域があって、それは芦屋という場所だ。ここは大阪経済圏の金持ちが自宅を持つのにふさわしい典型例とされており、それに伴って一種の俗物社会になっている節がある。勿論当人達はそういうつもりはないかもしれないが、どうしても比較の問題が生じる。

 東京で、以前なら田園調布、最近なら白銀台など、金持ちが集まっているとマスコミにはやし立てられた場所では、やはり俗物社会が発達する。それは隣家に引けをとらない様に振舞おうとする、又は嫉妬の苦痛を回避しようとする本能が働くからで、経済格差社会の(ここでは往々にして)負の面である。東京人達が、栃木、茨城や群馬といった近隣県やその観光地の地味さ――それ故の善さを頭ごなしに侮辱しまくったり、代わりに北海道・沖縄・京都、南国、西洋の主要先進国の大都市圏など、他人に自慢しつつハイステータスぶれる派手な場所へわざわざ無い袖を振っていきたがるのは、全て隣家への自慢の為だ。大阪人達も、俗物根性ではやはり似た様な部分はあるが、京都・東京に比べると隣家への見栄より金銭勘定が先立つ――ケチさが恥とは思われない文化な上に、これは京都や東京と同じだが視野が狭く、雑で、旅行先としては近隣の有名観光地へ行く傾向にあるのだろう。大阪人は一般に那須が何かすら知らない。大阪人一般の視野の極端な狭さをよく示している実例がある。茨城県の話題をしている所にきて、しっとるで! 茨木ええところやん、と言う。これはいうまでもないが、大阪府の茨木市の事をいっているのである。つまり超絶田舎者、世間知らずのままで、首都圏の方に出てきて恥を売っているのだ。東京人一般にとって全世界が23区――どころか、当人の暮らしている周辺駅、辛うじてそこから近隣3つ以内の範囲と、それが繋がっている区の主要都市以外に広がらず、最大に開けていても伊豆半島までなのは、そういう大阪人一般がおもにそのまま流れてきて、開発した干拓地だからなのだろう。
 そうであれば、今後も、東京がアジア随一の国際都市になる事は決してない、と私は思う。これは環境が悪い。例えば福岡の人達と比べると一目瞭然で、中国や朝鮮との距離が近く、実際に種族的にも文化的にも、経済的にも混じっている福岡人一般の方がまだ遥かにアジアに向け、意識も視野も開かれている。
 何しろこの東京人一般は、いまだに46道府県を、愚にもつかない偏見で、毎日のよう差別して回っているのだ! そんな狭量で暗愚な人達が、それより遥かに多様性、個性に富む195カ国の諸外国人と、相手の異文化やその尊厳を心から尊重しながら平等につきあうなんて、未来永劫到底できた話ではない。約18万人が、朝鮮・中国への人種差別ヘイターに都知事になってほしいと投票したのが東京都である。僕の市の人口の3倍以上の数の、凄まじく質の低い極悪人が集まっているのが東京。
 じゃあ僕がその「ヤンキー偏見」の東京にくらして公民度が高いと感じうるだろうか。ありえない話なのではないか?

 関西人だの西日本人だの全般が、僕の生まれ育った市の3倍以上極悪人が集まっている東京を「クール」で「洗練された都会人」で「教養が高く」「民度が高く」「なんでもある」と考えている場面を無数に目撃した。これらは全て間違っていた。現実とまるで違う妄想だ。西日本はテレビに洗脳されているのだ。逆に、ある京女が初対面で出身地を聞いてきたので茨城といったら「ヤンキーの印象しかないわ」といってきて、僕をなんとも表現できないほど軽蔑させた――というか甚だ心証を害して、二度とこんな人の住まう京都に行くまいと心に固く決めさせた原因になったわけだが、要は少年犯罪率は京都の方が高い。その京女は、当然ながら東京マスコミ――茨城のみならず東日本中で蔑視されている、悪意ある金儲けしか頭にない嘘つき、それどころか無実の遺族などをやってきた無法者東京人が囲い込んで自殺させてばかりの、悪魔の手先の集まり――に、簡単に扇動されている馬鹿だ。そんなのが自称文化的で上品な首都の、自称偉い上位者か? 茨城の刑法犯も少年刑法犯も、絶対数のみならず人口比すら東京・神奈川(横浜含む)以下。それなら一体どちらに「ヤンキー」こと不良が多いと思うだろう? 人口あたりの研究所数は茨城が圧倒的1位、偏差値にして85.76で2位の東京に15以上差をつけている。ではどちらがより「優等生」が多いだろう? 更には、イジメ発生率はずーっと京都が全国最下位。京都はずっと日本で一番イジメが多い。という事は、日本は子供自殺率が先進国最下位なので恐らく、先進国で京都が一番イジメが多いだろう。さすがに京都が全世界で一番イジメ多いかまでまだ定かではないが、その可能性も考えねばならない最悪の指標だ。現に、既に子供が中高生とかのその大人の、オバサン京女がそんな事を面と向かって言ってくるほど民衆にしつけがなっていないし、高が東京の下衆テレビにすっかり洗脳されるだけ頭も極度に悪いのである? その人1人だけでなく接した京女全員が似た様な事を言っていたので驚くばかりのイジメ風土では?

 結局こういう事。
 関西地方の人達の視野が、なんと同国中で、現首都圏に住んできた主な日本人を東夷など中国の華夷秩序の汚らしい差別用語で、千年近く決まって侮辱してきたくらい従来極度に狭い(かつ部落差別問題の通り、心がねじけており意地汚い)所にきて、東京の偏見テレビに洗脳されている。元々この関西地方が、今から1300年前に捏造された移民地区だと日本史はきちんと記録している。元から日本に住んでいた人達の居住区ではなかった。
 その渡来人達は、実は朝鮮半島で排斥された人達が多かったと彼らの本国の方でも分かってきている。何しろ当時、奈良と朝鮮は、戦争状態で不和だった。今の韓国人が向こうのネット右翼サイトで、半ば冗談まじりに、また半ば本気で「日本人は朝鮮をおいだされた悪者の末裔だろう、天皇も!」と言う事があるが、これは実は半分が真実である。正確に言うと、そういった人々が混じっている。
 朝鮮半島で蛮行し排除された人々は九州・山口から関西に亡命した。京都人が日本中から「心から素晴らしい人達だ」「なんと徳の高い方々だろう」「是非模範とさせて頂きたい」とか言われてる場面って、僕は一度も見た事がない。というか尊敬されている場面すら見た試しがない。逆に、水戸の老公が一番偉いと思っていた、と福沢諭吉が語り、西郷や松陰すら水戸学者を敬う。そんで僕も、ほんとに京都も水戸なり茨城も見比べていうが、明らかに水戸・茨城の方が偉い。これは嘘ではないからちゃんと文化も歴史も、現地も巡って調べてみるがいい。京都人は公税に寄生して贅沢三昧していたばかりか、寺まで金ぴかにし私有地ぶって観光収入貪ってきた。偕楽園は基本無料で民衆の庭。お寺ってのは古刹という名がふさわしいだけ人里離れひっそりとして、旅人を出迎えてくれる所が一番いい。それが本当の仏教だ。釈迦は郊外の林で一人、瞑想するのが最高の幸だといっていたのだ。茨城の佐竹寺が僕の知る限り、こういった真の仏教に一番近い姿で、力強い象徴だった。最悪なのが金閣寺だ! アホ外人が金閣寺にホゲホゲきて、パシャパシャ写真とってウェーイビューティフォとかほざいてるのは全部、あそこの金満俗坊主が足利義満に唆されるまま、観光収入を懐に入れて、延々と反仏教的悪業に耽っている証拠に他ならない。驚くなかれ、それよりは少しはましでもつまらん俗っぽい銀閣寺も私有だ。宗教法人だから税金すらかからない。時の将軍が雅ぶってる公家に引けをとらないべく覇を競う目的で、贅沢ぶって民衆から強奪した税で建てた寺って時点で既に俗なのだが、金閣も銀閣もぼろ儲けしまくってるのは、なんと中学生の僕も実際に金とられて参観したからよく分かる。完全にふざけきっているのだ。
 僕が言ってもどうせそうならないだろうが、金閣も銀閣も、本来当時の将軍の持ち物なんだから、国有にすべきではないのか。当時の将軍は、凡そ当時の民衆全体から税をすいあげてあれら今からみても大した事ない、幼稚な工夫しかない庭だの、無駄に豪華な悪趣味造作物を作っていた。国の財政を助けろ。

 まあ日本政府もこれまた俗人の集まりなので、スウェーデンの大学から誉められたら有頂天になっている。わが国に何の関係があるのか。本当に偉いのは日本の民衆の為に何かをして、それがまた他国の模範でもあり、或いは他国の為に何かをした人ではないのか。好きな学問やって面白かった、国税使った遊び。
 京都人の中で差別的言動した奴がいたら「そう言うのはよくないからやめようね」で差別された側をかばって「あなたは全然悪くないから気にしないで」と、ちゃんという人が1人でもいたら、それが別に僕の県だけではなく普通の人間というものなのだが、そっちのがノーベル科学賞より遥かに遥かに偉い。
 どうせ科学なんてもんは、いづれ誰かが同じ発見するというしくみになっている。特に自然科学は全部そうだ。だって自然界はもう既にあって事実は1つなんだから。こういう事実になっていたんだね、って誰でも真理が1つに定まるから、ネズミが一斉に迷路を辿って出口見つけるゲームと同じで時間の問題だ。
 経済学の場合、そもそもこれ殆どが現在進行形で作られている人の産費活動を対象にしてるだけに複雑系で、大体のが怪しい仮説の域を出ないし、経済学者のいう通りにしたら国が潰れたとか普通にある。そんなのに権威を感じてるやつもダメだけど、世界に権威めかすスウェーデンの大学もろくな目的ではない。

 んじゃ文学賞は? 僕の意見だが、ノーベル文学賞の選考委員会は趣味が良くない。普通に日本文学をまともに読んできて、その中で『沈黙』書いた遠藤周作じゃなくて川端康成とか、彼の最高傑作が『伊豆の踊り子』一作で到底太刀打ちできない筈なのに。大江健三郎も疑問しかない。つまり読めてないのだ。但し、スウェーデン人は、英語圏の文学だと結構読めている節がある。例えばイギリス文学の中でも一番上質な短編集といってもいいだろう『夜想曲集』のカズオイシグロの方を、物凄くひいき目にみて『スプートニクの恋人』が最高傑作で純愛と思ったらまた不倫か、で終わりの春樹より優先とか正しい判定だ。結局これってスウェーデン人の文学研究・読書能力の限界で、全部英訳だけで済ましている。これが明らかな事だ。だから英訳されてないとそもそも土俵に乗らない。最大の視野でもフランス語訳とかではないか。
 これに比べたら日本語圏とか各国文学もかなり訳されてるし外国語版も手に入るしまだまし。
 日本の側に目立った国際文学賞の類がなく、大体、文学なんてよっぽどの教養人でもなければ歴史的批評力の次元で正しく判定できる人とか殆どいないんだから――国文学者が、明らかに『平家物語』のができがいいのに、『源氏物語』オタクばかりみたいに、皆ノーベル文学賞がエライエライと思いこんでしまう。んじゃノーベル文学賞なんて無視すりゃいいのだ。あんなの魅力度調査レベルのもんで、各地の600人に、適当に印象論きいたのと何の違いもない。一体全体、3000000人の実人生と彼らを取り巻く文化的世界のすばらしさの何が、その全国の世間知らず田舎者・都会人600人にわかるというのだろう。唯の偏見だ。
 ノーベル平和賞、これとかなんのお国の為、アジアの為、世界の為の業績もないに等しい佐藤栄作が、長州閥の寡頭政治をごりおしして受賞とか、誰も信じていないと思う。オバマがシリア騒乱も愚図愚図してて全然撤退しなかったのに期待だけであげる、とか、最早賞の体を為さない。カネの無駄ではないか。

 それなら、ノーベル賞がーとかいってる人達も、完全に馬鹿の集まりみたいなもんで、唯の俗物根性でそういっているのである。目の前のイジメをスルーか加担、寧ろイジメを進んで主導してる京女を1匹でも猛説教してやった方が、どれだけ人類の為になると思うのか。僕は悟って、実際にそうしてきたのだが。


 関西地方の人達の視野が一般に狭いという話をした。
 そして東京地方の人達もこの点では変わりがない、寧ろ練馬区民がモデルの筈の、のび太のみている世界観が、近所の学校までの通学路と学校の裏山だけに限られていたよう、もっと酷い場合すらあると書いた。
 これらは風土だから変えようがない。

 千葉県千葉市で自殺配信した「ダルマ」と称する青年がいる。この人の一生を記したホームページを読んだが、正にこの視野狭窄の典型例で、物凄く憐れだと感じられた。千葉市の或る小中学校と自分の家の裏山にあるお墓。これ以外の世界から、彼は永久に閉ざされていた。引きこもりドラクエやってやがて自殺した。都会には何でもあるとか言っている人達は、本当に愚かだと思う。西日本だか中部だか東北だか、北海道・沖縄のどんな僻地に住み東京発のテレビばかり見てるのかしらないが、その東京圏の一隅で、現に恐ろしく狭い世界で生まれ、自分の家の貧乏さや低学力の余り絶望し、外へと脱出せず自殺した青年がいる。
 日本の都会人一般や、都会崇拝・田舎差別者の見方が大抵悉く一面的だったり、訳のわからない偏見や差別意識で満ちているのはちゃんと理由がある。彼らの生きている世界が、日常・非日常(旅行先)でも、異文化への理解力でも、共感の心でも余りに一様で、狭すぎるのだ。中華思想は構造的で、実に根深い。

 一ついえる事は、我々はこの中華思想を心身ともに文化から刷り込まれ、知らずしらず帯びている人々を、反面教師にしなければならない。自称天皇こと皇族はいうまでもないが、この第一人者で、中華皇帝を模した差別の権化だ。
 彼我を比べつつ、違いからの学びを尊ぶのが普通の、多文化的で寛容な国だ。また政府が承認済み195国、それ以外の人や生命のいづれについても、47都道府県同様に、なんらかの意味で見下したり、下らぬ差別的偏見を持ったり、逆に妄信的に崇拝したり、一面だけに偏ってひいきすべきでない。単に等しい立場にある様々な共同体と見て、長短を探り、美質から学び暗面を避けるのだ。