2020年10月27日

愛知県の人達と接して感じた事

僕が過去接した愛知県の人達はみなとても特徴的だった。それも或る共通の向きへ。
 まず全員が正直なところ上品とは言い難い感じで、敢えていえば不潔感があった。
 それというのも彼らは性的な事柄、特に売買春をおもとする事柄に異様に詳しく、老若男女当たり前みたいに語っていた。どうも愛知は性売買が文化の不可欠の一部になっていて、家庭のある愛知男も当たり前みたいにそこに通っているらしい。在日朝鮮人を差別しながら韓国で同じ業をしたと自慢している、年齢は40代半ばから50ほどだろう妻子持ちの夫もいた。この時点で僕が生まれ育った茨城県北部あるいは北茨城の環境とは、風紀も人達の日常の言動もまるで違う。ここではそういった話題をする人自体がいない――子供の頃から身近にみた試しがないので、自分は愛知人なるものを観察し、大変文化衝撃を受け続けた。
 同じ日本なんて大嘘で、今から150年前に烈公が構想した国家が、彼の名づけた北海道や、島津家が強奪した沖縄県と共に、結果として偶々今の姿に留まっただけで、元来違う国民なのである。
 尾張国の人々を今では愛知県民と呼んでいるだけ。こういってはなんだが、性道徳の風紀でみれば、愛知に比べ茨城は、ほぼ良家の子女の集まりといっていいほど違いがあった。例えて言えば、田舎紳士を自認するイギリス人が、グランドツアー中に宮廷で高級娼婦が活躍していたフランスや、女性や母にぞっこんの軟派男だの人気のない道端に立つ謎の薄着女だの祖国で目にする事もない――祖国の純潔倫理では堕落しきっている様に見える人々だらけのイタリアに旅行したら、似た様な異文化感覚を受けるに違いない。同じ江戸から行った徳川家が治めていたとはいえ、250年の間にまるで違う文化の元で、まるで違う国民の個性ができあがるとは、親戚で共に尊王論を奉じていた共通面もあるとはいえ、水戸の徳川と尾張の徳川とは資質が全然違ったのだろう。

 それで他にも色々僕には――現茨城県より遥かに雑多な東京都ですら――見たことも聞いたこともない言動を愛知人達はしていたのだが、これは書き残す価値があるだろうといえる点を抽出する。
 僕がいまだに疑問で何度も思い出すのは、ある愛知女に僕がこういう話した時である。自分の絵は全然売れませんよ、と言った。これはいうまでもないが常識的な謙遜であり、自負の意味である。なにしろ絵を売るつもりなどさらさらない。実際売れようが売れまいが、売り絵を軽蔑して生きているのが芸術家というものだ。ある東京女に絵を売るよういわれたので、当時はそれをきっかけに商業美術なるものを研究のため実験していた時期にあたりつつ、心の中身は全然違う。絵って売る為に描く商品でもなんでもないけど。いい絵が見たいから、他人が描いてないので自力で作るしかない。さもないと、自分の絵の趣味、鑑賞眼が満たされないのでやむを得ず描いているだけだ。しかも15の頃からずっと。
 するとこの愛知女は涙を流す様な素振りをした。アバターでだけど。これが僕には本当にびっくりする反応で、これはなんで泣いてるのだろう? となった。今もよく分からない。色々考えたり、さらにその人の普段の言説を観察分析したり、愛知の文化背景まで実地を含め調べて行ってやっと僅かなりとも推測できる様になった。この愛知女は、職業とは金を儲ける事が前提の代物で、芸術家も当然そうであり、したがって金にならないとはその仕事が失敗している或いは無価値に等しいという含意なのだろう、と考えられる。要は商業主義的な職業倫理観を持っているらしいのである。
 一方で僕の故郷だと詩人や画家らが偉業視されていて、彼らの物語としては、いわゆる武士は食わねど高楊枝式で、貴族義務同然である。例えば雨情は啄木と同期だった北海道新聞を辞めてから山を切り売りせざるを得ない中で童謡を作るといった事をしていたし、大観ら五浦派は隣の大津漁港の魚を買う金もなかったので自分らで釣っていたという伝説が、郷土文化史の一部として割と普通に知られている。彼らは侍階級の子孫だった。公務員やっていた僕のお爺ちゃんの代の地元人らである。この点で、偉い人になろうとしたらまずは文化的仕事に集中し、金儲けは後回しと考えるのが「肘に枕し、粗衣粗食に耐える」人士だろうってのを当たり前だと思っていたのである。自分は。しかしながらこれはその愛知女のその言動で分かる通り、全く県外では一般的ではなかった。唯の利己と自己犠牲による利他があるなら、後者を進んで選び取るのが少なくとも、郷里で生まれ育った友達より勉強できている側として同然という考え方は、いかにも奥ゆかしい水戸の徳川家あたりから、その統治圏の最北部まで伝染した遺風だったのだ。
 あの愛知女はこういってはなんだが、昔からの尾張国の田舎町人的考え方を素でしていただけだろうし、僕の側がミラーニューロンの混乱で「なんでこいつこんな卑しい様な事いってんだ?」という当然の疑問を今まで、大体2、3年かけ考察してきたなど到底知るまい。そしてあの女が自分が常識だと感じてきた、水戸の侍らの大義の勇に駆られた行動の数々を、心から感得する日も恐らく一生来ないだろう。彼ら自分からみれば祖父母か曽祖父母の時代に、国を想う一心でこの地を駆けていた侍らの末裔はといえば、今は僕の父の跡を継いで県庁で公務員やってるのかもしれないし、別のなにかをしているのかもしれない。だが遺徳という点でみれば、先祖の名に恥じない仕事をきっとするつもりはあるだろうと思う。三島由紀夫は、水戸支藩の侍の子孫だった。彼を最期として、慶喜公の末裔が崩御され、もう侍なんて消えたでしょ、と思いきや、この自分(農民と商人の末裔)の中に、理想として生き残っていたのだ。そしてその心の中で既に意識される事もなかった道徳性と、あの愛知女の尾張国、特に徳川宗春に由来した商業慣行を前提とする向こうでは当たり前の異文化が、自分に大変な摩擦を感じさせたのだ。