関西人や西日本人全般からすると、最早追いつく事のできない経済的差のついている首都圏を南北で分断し、北側を「北関東」と汚名用の名義を着せ、東京・横浜内部から汚辱する謀略は手っ取り早い分割・内乱策だった。
そして東京・横浜人一般は余りに愚かで、余りに驕っていたのでこの謀略に乗った。
はじめこの首都圏分断の謀略は「道州制」と呼ばれ、特に関西財界から提出されていた。当時の都知事・石原慎太郎が東京都の覇権を維持する目的で問答無用でこの制度の議論を潰して回ったので下火になったが、大阪都構想は当時の大阪人による、首都圏破壊工作の名残だ。
慎太郎はまた首都移転も潰した。国交省は手狭になった官公庁を、国会ごと空いている新時代の首都に移そうとし、栃木・福島地域を最有力候補に選定済みだった。
一方、石破茂は安倍政権の地方創生相になった時点で、地元の鳥取を含む西日本側へ、首都機能を分割移転させようと図った。ごり押しし続けた京都市だけ文化庁を奪い取った。
東京のマスコミが、やはり関西・福井人の田中章雄を筆頭として、「北関東」に汚名を着せ続けているのはこういった背景がある――即ち関西財界の悪意ある手先として、首都圏の経済的協力を弱めつつ、疑心暗鬼を生じさせ、国力を低めようというのである。同じ謀略を試みていたのが西郷隆盛や幕末の島津家だ。関西人・西日本人らは、京阪財界を中心として、首都圏の経済力および政治的地位、特に彼らにとっては東京・横浜のカネ儲け度に嫉妬しており、そこからくる財政力に対しても略奪や破壊的な悪意を持ち、分断工作を絶えず図ってきている。大阪の経済や京都の政治的地位が決定的に脱落して久しいからだ。この意味で、愚かで利己的な驕った東京人達を煽りさえすれば、「北関東」辺への首都移転構想を差別的偏見によって潰せる上に、自分達・関西の方へ省庁や国立機関を引っ張ってくれば、国家公務員を地元中心主義で篭絡し、その業務・地位を乱用させ政治的横暴を働く事もできる。これが関西人の真意だ。
特に京都市長・門川大作は、京都府知事を繰り返し説き伏せ、憲法で禁じる皇族の不正な政治利用にあたる、京都市内への皇族誘致を図ってきた。これは中世都市の虚栄心を満たす目的で、首都が完全に名実共に東京な現在、京都人らが真の首都は京都だ! と公然と言い繕う為で、実に幼稚な考えだ。石破茂は自民党内の派閥闘争で地位を追われた。この為、主に西日本への省庁や国立機関の分割・略奪工作は頓挫した。
京都市は文化庁を元々下京で部落差別の対象にしていた崇仁地区へ移転させ、「タダで観光できる」と喜んで移り住んできた単純な東京人を、陰湿に裏では嘲弄するといった意地悪をした。
文化庁は一時移転に終わるだろう。関西人・西日本人全般が悪意で東京内外から辱め、規定路線だった「北関東」への遷都を邪魔しようとした謀略も、こうして暴かれ、田中章雄諸共、地の藻屑となるであろう。人の悪業は天地人に知られる。一体誰にそれを隠し通せるだろう。栃木こそ既定遷都先だったのだ。また茨城県についても、国交省では「新首都の補佐」と定義され、遷都先の第三候補だった通り、これまで関西人らが都内外から行ってきた嫌がらせや差別の数々にも拘らず、経済成長の恩恵を最もこうむる結果になるだろう。TXが近く主要都市の水戸まで延伸され、主な関東平野に悉く大発展が広がるだろう。西日本人・関西人らは実に陰湿で、東京まで出てきてひたすら上記の様な、彼らの地元でやっていた「部落差別」の二の舞をしようと図っていた。だが都道府県単位での部落差別など、一体誰が当然視するだろうか。何百万人もの人々を人種・門地・地域差別し続けるなど不可能な事だ。ホロコーストは破綻した。西日本・関西人らは根っから悪質で、適当な難癖をつけたレッテル張りこと、差別による人権侵害を当然視するというヤクザな陋習を持ち、悪しき民族性を誇っていた。統計ごっこを乱用し、その中世的な謀略で金儲けしてきた田中章雄が、東京マスコミの間では重宝されたとて、日本を愚弄した話でしかない。
西日本や関西地方、及び東京地方(ここでは東京・神奈川・千葉を主とする地域)では、公民度が余りに低いので、驕り高ぶりながら悪意と偏見に満ちた都道府県差別を当然かの様に、報道し、或いは公言してしまう。この種の馬鹿げた民衆の間で、斯くも稚拙な京都市長級の陰謀が罷り通るのは陳腐な話だ。本来の国事は、自国の全国民を等しく扱うものでなければならない。そこに門地・身分差別、居住地差別、生育・出身地による差別があるべくもない。だが東京・関西地方や、西日本全般ではいまだに中世の蛮風が支配しており、部落差別を当たり前にしているので、その卑しい意識のまま都道府県差別をする。言うまでもない事だが、皇族という存在もまた、この関西地方の卑しい民衆がおしつけてきた差別の制度に他ならない。うまれつき身分が違うとか、うまれつき地位が違うとか、うまれつき人種が違うとか、こういった妄想は全て、関西人の根っからの卑しさの証明でしかない。人の尊厳は全て等しく扱われる。
栃木・福島と、茨城が協力し、国交省の選定した通りの遷都を近い将来実現した暁に、そこでは東京地方で行われてきた浅ましい全国差別・田舎差別の風習は、関西人・西日本人全般の持ち込んできた部落差別や、皇族式の地域・門地・身分・人種・性差別の悪習諸共、完全に跡形もなく打ち捨てられねばならない。
因みに遷都先、国交省は最終候補で栃木・福島地域と補佐としての茨城地域を、特に栃木・福島圏の小高い山に囲まれた清浄な高原という「景観の美」と茨城地域の「災害のなさ」を理由に挙げたが、自分が第二候補の愛知、第三候補の茨城と共に三箇所を観察・分析した限り茨城が主、栃木福島が副な方がいい。理由として、この栃木・福島の人々は総じて地域が閉鎖的な山間なので、はっきりいって国際的視野がない。つまりいわゆる「村社会の田舎者」といった感じで、太平洋に面した日本最大平野の殆どを占める茨城の人々に、社会的な開放性の面で比べるべくもなく、特に中央政治への関心は茨城の方が遥かにある。
茨城の人々は首都圏の情報を全て得ているが、それを批評的な目で客観視しているといった感じで、副将軍と称していた頃から中央国政を外部監査する目線が変わらない。
それに比べると、先ず栃木の人々は国政に主導的に携わった歴史的経験がない為か、万事、遠い場所での出来事といった感じで主体性がない。
福島の人々は広い海や、急峻ならぬ山に恵まれた間に、点々と長閑で平和な農村地帯が広がっているといった場所柄(ダッシュ村的な感じ)なので、茨城・栃木に比べると、もっと穏やかな県民性を持っているが、余りにお人よし過ぎて性悪東京人の為すがままにされている節がある。つまり政治に受動的である。
これらの既往の一般的な県民性を、環境と共に見比べると、茨城に主な官公庁を新設し、それを栃木の一部官舎(例えば那須御用邸と同様に国家公務員の主な宿舎)が支えるとか、福島に最高裁を置くとかいった形がいい。
(思うに福島はずっと全国で一番子供のイジメが少ないという指標が出ていて、お人よしさでいえば日本で一番の県民性だと思われる。そういう所に最高裁の関係者を住まわせれば風土・風紀の影響を受け、少なくとも日本で最も寛容、世界的にも大幅に寛容な判定をする様な国家司法に変わっていくと思う)
が、栃木福島に主な官公庁や国会を置けば、奈良京都でそうだったよう今より更に閉鎖的国政になる筈だ。
愛知の人々は、あいちトリエンナーレ2019の騒ぎでもわかるが、そもそも文化に関する趣味が極度に悪い、または文化資本が致命的に欠落しているという既存の特徴がある。歴史的には徳川宗春が商業を特に奨励した因果かと思うが、県民性が通俗的で、なににつけ世俗的職業志向が先立つ上に、内輪的である。愛知の人々は学術全般の為事を、地に足の着いた職業だとみなしておらず、トヨタを規範とする商業全般より遥かに低くしか評価していない。こういった商業主義の面はそこに中央政府を置けば確実に全国に伝染する。例えば東日本大震災中に、復興支援を、名古屋市長が値切ってきた事すらあるケチな風習だ。
今後の日本を考えた時、愛知的な「内輪で固まるドケチ商人」式の、見方によっては下卑た国民性になっていくのが望ましい、という風に自分には感じられなかった。場所という意味で平坦な土地があり、東京圏・関西圏と程近いので第二候補になっていたが、明らかに商売志向の県民性の影響が無視されている。
一方の栃木、福島や茨城も、産業は農工商とバランスよくあり、特に茨城については学術研究機関の人口比が全国で圧倒的に1位(偏差値85.76で2位の東京に15以上差がついている)と、日本で最も学術重視の県といっていい。愛知風商業国か、茨城風学術国かで選ぶなら自分は後者が望ましい未来だと感じる。
また茨城が商業を軽視しているかといえばそんな事はなく、経済成長率は全国1位(2017)、要は県民全体が商業的な世俗職業志向に偏っている愛知ほど学術・文化資本に疎くない、というだけの話である。
これら全てを省みるに、自分は茨城を遷都先に選ぶべきだと以前から感じており、その計画もした。2016年に設計した『全国知事会議事堂』は日本一広い都市公園である偕楽園内に、国会廃止後その代替とした全国知事会の議会場を設置する案だ。国会議員を0にでき、国会議員に関わる費用を0にできるので、将来、知事が慶喜公の構想した諸侯会議式に国会するのが望ましいと思う。