この2日くらい、胸が泣いた時みたいな感じがする。恐らく酷く傷ついたからだろう。セカオワが
「大切な何かが壊れたあの夜に
僕は星を探して一人で歩いていた」
と『RPG』で歌っていたが、それに近い感じがする。いわゆる心が悲鳴をあげているというやつだろう。
僕以外にも、この世には心が傷つき易い人というのがいると思う。少なくとも僕はとても子供の頃から、というか生まれつきそうだった。少なくとも僕は、自分より繊細な感じ方をする人に会った事がない。つまり僕からみると、自分の会った人類全員が野蛮なサルにしか見えなかった一つの理由がそれだろう。
それで、恐らく自分と同じくらい心の細やかな人は希にしかいないとは思うにしても、もしそういう人が将来自分のこの記述を偶然読めば役に立つだろうこと確実な経験則を書き残す。
先ずあなたは性悪な人達に「絶対に」親しんではいけない。これは「絶対に」なので要注意の部分であり、例外はない。性悪な人達は他人を傷つける事を趣味にしている場合が殆どだ。そうでなくとも性悪がガサツで無神経なタイプだと、平気で他人をそしってゲラゲラ笑い、当人達は平気な顔でいる、それどころかその場で忘れてしまうが、我々は即死級の心的傷害を一発で負ってしまう。僕が今こうなっているのもそのせいだ。性悪な人達には2つの種類がいるかもしれない。1つは元々、他人の立場を思いやる共感性の認知力が低い人々である。もう1つはしばしばそれを兼ねるが、嗜虐快楽の趣味をもっている人々である。前者はガサツ、後者は悪人といえるが、このどちらのタイプも、繊細な心の持ち主とは相性が恐ろしく悪い。僕は単に繊細なだけではなく、記憶力も自分の知る限り大変よいので、自分を傷つけてきた人に関しては物心ついた3歳児くらいの時点から全員憶えており、一度以上そういう事があったら基本として徹底的に避けている。単に当人を避けるだけでなくその人が近づきそうな場所とかも進んで回避して接触しない。これは我々からすると、そうでもしなければ生きていけないので義務の様なものである。ガサツな人にしても悪人にしても、性悪達は他人に心的傷害を与え謝罪も賠償もする余地はないので、互いに別の世界にくらしている方が幸福である。或いは記憶力が発達した原因も、性悪忌避が目的だったかもしれない。
僕の場合、幼稚園段階から学校なる場所は正真正銘の地獄であった。自分は20年以上にわたって拷問を受け続けた。学校は総じて僕より遥かにガサツな人達、又は悪人が集まっていたからだ。学校に行くだけで無限に傷つけられるので凡そ全て悪い思い出しかない。しかし自分は拷問に我慢を重ね大学まで行った。僕の時代、自宅学習の自由はなかった。そのせいで自分は約20年も凄まじい苦痛を味わい続けた。だから義務教育という監獄を作った明治政府も恨みを通り越して完全に悪の権化という風にしかみえないし、文科省や教育組織に属する日本の教師という連中も、一部の例外を除いて総じて極悪人だと信じている。自分は幼い頃から、既に会社又は役所なるものに属する事も考えられなかった。最低でも、自分が全てをしきれる指導者の立場でなければ、その組織の程あれ性悪な構成員らから害を受ける事は確実だからだ。この事は過去そうであっただけでなく将来にわたっても同じ筈だ。心の細やかな人は主以外になれない。確かに組織の害悪度は、ある条件で緩和される。それは自分の場合、高校がそうだったが、学力検査など足きりで、一定より一般知能が低い者が属し得ない条件である。またアメーバピグで自分が主で部活を作った時も、人格的に問題があるか問題行動を起こした者を強制退部させる方式で、ましな組織が作れた。自分が人事権の全てを掌握した主、最大で国王になれる組織なら、自他に害を為す性悪を強制的にその組織から排除できる。現実に自分が絶対王政を執れれば、疑い様もなく「繊細な心の持ち主も生きるに値する、公害の抑えられたましな国」が作れる筈だ。だがこれには悪人徹底討伐の冷酷な面も必要である。
日本国を仕切っている天皇や首相は、僕より遥かに性悪であった。それで僕にはこの国は、凡そどの場面でも野蛮すぎ、生きるに値しなかった。組織の主の質が、その組織の全てと言っても過言ではない。僕はこの意味では産まれるべき場所を間違ったのである。僕には日本国は主が悪質すぎる組織だった。
それで繊細な人が執れる方針は、おもに2つしかない。1つは権力闘争のすべを身に着け、現に組織を拡大する事だ。これは野蛮な性悪どもとの対人的摩擦を含むので自分が全く傷つかないわけではなく、矛盾を孕んだ方針だが、組織の内部では害悪度の少ない状態を作りえる。もう1つは、対人関係を断ち、箱庭的な世界を作って、釈迦や鴨長明、或いはヘンリーダーガーの様にその中に理想郷をみいだす事だ。釈迦の場合それは林の中での瞑想で得られる無心さだったろうし、鴨長明は方丈のあばら家での随想だったろうし、ダーガーはビビアンガールズの物語だったのだろう。性悪はいわば文明の敵といってもよく、認知的無能か悪意かいづれかで他人に害を為し続ける。その中でたちの悪いのへ刑罰を与え、時には終身刑や死刑にする。しかし一般にその性悪度が程々のタイプは、確かに野蛮人なのだが、世間に放し飼いにされているのだ。彼らが為してくる害こそ文明の不快さの全てだ。
方針1を権力志向、方針2を箱庭志向とすると、このどちらもここでは他人に対する共感性の高さとしての繊細な感受性、いわばこの世での神性を程あれ持つ自分が、いかにしてその逆にいる獣性の持ち主達から、自他の心身を保護するかという闘争の局面だといっていいだろう。文明がやっているのは、より繊細な人があるじとして組織拡大するか、それが不可能な時、箱庭の中で仮の理想を設計図として実現しておくか、いづれかだ。現実に社会を変えるのは前者、その前提として心を変えうるのは後者である。つまり権力闘争にせよ箱庭作りにしても、性悪どもを討伐する目的しかない。性悪な人々を避けていくのは、消極的解決である。現実の権力闘争ではそれだけで十分ではなく、彼らに不利な社会作りをする事で、公害度の高い人々をなるだけ早く淘汰し合法的に減らして行く事が必要だ。この速度が早ければ早いほどある文明が幸福なくらしをできる場になる。知識や技術はこの道具である。「勧善懲悪」という言葉がある、成程この概念は劇作で頻用された為、より複雑な対立関係の素描に見えるソフィスト的な道徳相対主義の流行の前でしばしば陳腐扱いされているが、現実社会の究極目的は確かに勧善懲悪にある。我々もまたその文明の日進月歩の一部であり、勧善懲悪に貢献する要素である。
繊細な心の持ち主は、他人の気持ちがよくわかる。少なくとも僕は一定より親しい人々に「優しすぎる」と評価される事がよくある。この特徴は、要は思いやりが深いという事だが、文明なる勧善懲悪劇の中では、善なる利他主義者を助け、悪なる利己主義者を罰する統合的役回りを期待されているといっていい。神は幻想ではなく、実際には人々が普遍的に抱きやすい美徳の強化版である。つまり程あれ神的な人というのは聖人級以上の道徳性の持ち主として実在し、それは哲学的洞察力の深さそのものでもある。より万学を重ねる事で、その文明の時点での仮の美徳の結晶としてだが、優れた人徳者が出現しうるのだ。繊細な人は、総じて生まれつき共感的な認知力が高いので、それが利他性や確かな学識を帯びれば、比較的容易に聖徳を得られる。この質が高くなればなるほど、この世で実現する範囲である種の神性に近くなりもするだろう。いわばプラトンのいう哲人王とは、この種の最高の他者理解力をもつ人を指している。結局、我々、生まれながら繊細な人の使命は2つある。
1、哲人王を目指し権力闘争を重ねる事。
2、理想を表す事で道徳的啓蒙を図る事。
権力闘争に打ち勝つ才覚があるかは、結局、心身の強さと関係しているので、最も強壮な人の役割になるだろう。そうでなければ芸や論説などで理想を語るべきだ。性悪どもは無限に悪事を重ねてくるし、未来永劫そうしているだろう。彼らを一人残らず退治し尽す事は永久にできない。なぜなら性悪さは程で、誰かの共感認知的な誤り易さ、又はそれに伴う悪習の質にすぎないからだ。勧善懲悪劇は果てしなく続く。だが世の現実は全てその諸相として展開しているのである。