2020年9月19日

ヒトは道徳的に生きる事が目的の生物

僕以外の人達が同じ事感じてるかは知らんけど
そもそも僕はこの世の人間社会に全然馬が合わない
色々みてきたけど理由はよくわからない
でも合わないのだ確かに
けどこないだギャルみたいな奴をツイッターで見つけ
東京で4人に告白されたわとかいって自慢していた
猿に近いのには相当楽しい社会らしい

とにかく人間界に全然合わない僕からすると
そいつの存在は驚きでしかない
だって人間界が楽しいとか言っているのだ!
まるで違う生命体がいるものだ
ヒト科とか言ってるが何から何まで違う
当然だがそいつと同類ではないのは確かだろう
僕には東京は猿未満の野卑スラムで
地獄にしか見えなかったのだ

余りに野蛮な猿達に囲まれているので
苦痛で仕方なかった為
僕は小学校4年くらいのときお風呂で一人で自殺するか考えた
しかし死んじゃうかももう死んでもいいかもと思ったが死ななかった
なぜなら死ぬ為の方法を知らなかったからだ
だがその時点で僕は命を捨ててきた様な気がする
猿達の社会は地獄だ

僕のIQが人並み外れて高かったのだろうか?
なにせ僕と似た様な事を言っている人を1人だけ見た事があるが
その人はメンサ会員の青年で高IQ特有の悩みを語っていた
僕は自分の感じを悩みとは思わなかった
単に地球なり日本なりのヒト界の現実と感じていた
僕の主観的経験は何らかの知能差のせいだろう

僕が勉強できたといっても限度がある
だからIQが異常に高かったとは思えない
確かに中学生までは勉強せずほぼ満点位だったが
高校で日本の偏差値教育なるものが馬鹿らしくなって芸術を専攻しだしてからは既存の学問もほぼ独学してきた
その意味で僕はIQが特別高い唯の優等生なわけでもない様な気がする

他にも最近ヒントを見つけた
ギフテッドの感覚性過度激動というのにとっても似ていると知った
僕が日常的にやたらめったら詩とか絵とか音楽とか作りまくってるのはこの特徴の為だと思う
僕には外の環境が刺激が多すぎ家に篭もっててすらそれだけ感覚が激震しまくっている
またHSPってのも似ていた

ツイッター界だとHSP、Highly Sensitive Personはインチキな疑似科学だとか言っている
確かに心理・脳科学界で新概念すぎまだ一般化されてないんだろうけど
この分類にあてはまる特徴が明らかにあるなあと感じる人には救いの綱の様なもので
アカデミズム内の扱われ方とは別に有益な概念なのは確かだ

芥川龍之介という人は漠然とした不安とかいって自殺した
この人も今の学問でいったらギフテッドの何かの類型かHSPに近かったのではないか?
当人の遺書では「神経質」という古い概念で自己省察されている
些細な事で感じ易い神経質なんていうまでもなく
それを遥かに超えて心理的衝撃が走るのが僕らだ

僕は京女に精神的ショックを受けまくる経験が多かった
なぜかというと僕と正反対の性格をしている
彼女らは文化的にも性悪の権化みたいな人達なのである
こっちが全く予想もしない形で嫌味を言い差別をしてくる
その意味で僕には京女一般は天敵だった
唯でさえ生き辛い利己主義者の社会でも一番邪悪で

日本ではギフテッドが精神疾患と混同され易いという
確かにそういう国だと事前に知っていたので
僕は演技によって普通に偽装するという方法を18で覚えた
これを覚えていなかったら殺されていたかもしれない
後で『18才の自伝』を完成させるが
それを全て読めば僕がこの術策を命懸けで覚えた訳がわかる

他の人達がなんで僕が詩だの俳句だの無限に作ってると驚くのかさっぱりわからなかった
だって実際そんなの無限にできるだけだろう
ただ言葉を適切な配列に並べればいいだけだ
それができない人達がいるというのが理解できない
ピアノ弾けたり数学解ける人達にできない人達の感じが分からないのと一緒だ

この意味で芸術家は相当程度うまれつきではないかと思う
作品なるものは無限にできるからその中でどれを残しどれを捨てるか選んでるだけだ
単に無限なだけでなくその中でもより興味深いものを選びだすのが難しい
進歩的な作品は無限の中でも本の一部だからだ
決定的に進歩的なのはその中でも更に少ない

小説家になりたいとか言ってる女を以前みた
そいつは三島ファンなのだがさっぱり作品を作っていなかった
いづれ出してくるんだろうとばかり思い込んで
僕はその女を丁重に扱っていた
けど結局とんでもないサイコパス女で
散々こっちを名誉毀損しまくり最終的に逃亡した
唯の社畜結婚厨になってしまった

いわゆるワナビーというやつなのだろうけど
この人達ははっきりいって芸術家になれないと思う
芸術家って僕みたいなやつを指しているのだ
無限に作品はできるが体力の方が追いつかないし
そもそも無限に作っても置き場がなくなってしまうわけで
その一部を拾い上げ常にパワーセーブしている仕事の人

一個も作品を作った事がないとか論外で
そういう事では全然なく
単に泉みたいに半永久的に流れてくるから
溢れ出すのを抑えられないだけである
詩心を七歩の才というけど
七歩とか時間かかってる時点で微妙であり
脳内に無限にあるから単に書きとめる速度が遅いだけの筈だ
タイピングで指痛くなるだけの話

芸術家タイプだ~とか心理学でいうが
ガチの芸術家からするとそういう事でもなく
タイプとかではなくて芸術にしか興味がないのである
大体、音楽で泣いた事がないとかいってる奴も意味がわからない
泣きまくりである
泣きまくりとかじゃなく感動しまくりである
感覚だか感情性が高いと感動するのでは?

こないだ夕暮れに疲れてベッドに横になったら
秋の虫さんが凄くいい感じで鳴きまくっていたお庭で
しかもオーケストラみたく複数の虫が対位法つかって重ねてだ
それで思うに虫とかも感動してるんじゃないだろうか?
虫すら感動してるならヒトがしない意味わからない
してないとしたら脳反応の欠損では

僕がどういう時に作品制作をやめているか?
気を使って周りに迷惑かな~って時と
作りすぎると後から整理が大変かなって時と
2つしかない
それで常にパワーセーブモードでしかない
でもそんなもんだと思う普通の芸術家さん達
スランプが~とかも意味が一切わからない
村上隆がそういってたが完全に謎

スランプとか言ってる人は
そもそも芸術を仕事にするのやめた方がいい
だってそれ向いてないからそうなのだ
野球選手がバット振って今日はノリがな~レベルだ
そういう問題じゃなくて
より良いバットの振り方とそうでないのがあるだけでしょ
スランプの意味も圧倒的に良い振り方できないってだけでしょ

秋の虫さんを考えて貰いたい
今もお庭で鳴いていらせられる
彼らが鳴かないとかいう選択肢はない
それは死の時つまり冬だ
芸術家とか詩人とか画家とかもそれだろう
作れなくなったって事故で脳死とか目が潰れたとかの時だ
それ以外のスランプって存在しない筈である
創作は無限にできる作業なんだから

僕が思うに
ある専門的な芸術を作る人の正体は
その分野の熱狂者に他ならない
大江健三郎とかも少し似た事を言っていた
小説をよく読む人がよく書く人だと
これはつまりマニアって事
自分が既存の物で満足できないマニアだと
そもそも自分で作る事でしか刺激を得られない
この意味でマニアしか作れない

僕が音楽創作はじめたのも
そもそもこのマニアなせいだったと思う
「音楽ってこういう事じゃねーだろ」と感じ
自力で作る事でしか「こういう事だよね」って感じを得られなかった
だが他の分野についても同じ事がいえると思う
単に全てを見尽くして飽きてない人はわざわざ芸術創作とかしなくていいのだ

とるに足りない芸術家の皆さん
即ち同時代的作家のほぼ全てを意味するが
彼らってのはマニアではない
だから既存の物を見尽くした、飽きたといえてない
それで過去の様式と同じ物を量産してんである
リヒターのいうゴミの量産ってそういう事
マニアじゃない人は過去の反復で車輪再生産してしまうのだ

考えてみると僕が芸術に相当はまってきたのは
それが自分の多分生まれつきの感覚性過度激動なギフテッド性を満たせたからかもしれぬ
今にして考えても僕は子供の頃からよく泣いていたと思う
それは悲しさとかをよく感じ易かったからである
視覚美術いったのも
自分の生まれつきの感じ易さの傾向と思う

「わー綺麗だな~」という視覚的に圧倒される感じを
もしかすると僕以外のヒト科の猿達は感じ取れておらず
僕が大変感激してる時になんとも思ってない可能性がある
高校のとき詩仙堂で僕が庭で立ち止まって眺めてたら
デブ同級生勝田がおい何してんだとかからかい気味に急かしてきた
あれとか正にそれ

京都の色んな庭行ったが
少なくとも詩仙堂のが桂離宮よりずっといいのは間違いないと思う
地味さとか借景のレベルがいい方だと思う
京都ではだけど視覚的にかなりよくできた方の庭だ
それでも例えば茨城の西山荘、特に湖の向こうにある佐々宗淳邸跡からみる感じに比べると詩仙堂のが俗っぽくてよくない

視覚的美もうけとる知能の問題だから
よく見えてない人にはみえてないのかもしれぬ
僕には見えまくっているしいつまでも憶えてる方なのだが
余りに見えすぎるからわざと傷ついた古い眼鏡つかって
東京にいるあいだ視覚的刺激を減らしてた位だ
東京は美しい景色が少ないので見えるほど苦痛になる

絵を描かざるをえないってのも
そもそも僕以外の誰かが
僕が感動できる絵を量産してくれてたらやる必要ない
わざわざ大変な作業なんざしなくていいならそれに越した事はないだろう
建築も同じで
僕が造らなくてもいいのがあるならあんな苦労し修行しなくてよかった
感覚鋭いと芸術家はならざるをえない

学者は先行研究を調べる必要がある
これも全く同じ道理だと思う
マニアでなかったら学位論文とか書く必要ない
だって既に量産されているので
それらで十分楽しめる筈なんだから
既存研究で飽き足りないヒトだけが本来論文だか研究書を書くべきなのだ
量産されるゴミ論文とゴミ学位は無益有害だ

哲学をするヒトはこれより更に条件が厳しい
少なくとも抽出的な形で過去の全思想は手に入る限り知っておく必要がある
さもないと二重三重に過去の思想家と同じ苦労をし長考した末、一生が無駄になってしまう
専門分野のない思想家、哲学者の学習負担が最大になる筈だ
成程僕はそれが全知の前提と思う

芸術は哲学にとっては研究価値がある程度の分野だろう
ある作品が趣味とか技術とか感覚論・美学に与えた影響を調べる
同じ事は各科学についてもいえるが
枝葉と幹をとりちがえるのは愚かというべきだ
幹は哲学といえるのでその頂点を目指す必要があり
科学なり芸術の専門家は枝葉にこだわりすぎている

哲学は最終的に人たるものいかに生きるべきかという倫理・道徳に辿り着く
道徳を端から悟っているヒトは聖人といえる
だが最高の道徳を学習なしに悟る事は非常に難しい
過去の道徳は漸次更新されてきた
新たな知識、新たな美学を汲み道徳観も進化していくからだ
人が学ぶのはより高い道徳性をえる為だ

我々は最善の道徳をもつ人を理想的な聖人だと感じる
それでイエスとか釈迦とか孔子とか或いはマホメットとかの聖像が作られてきた
最高徳の持ち主になるには、あまねく深く学び、且つ善とは何かを徹底的に考えぬくしかない
だがこれ以外に人道はどこにもない
道徳を知らずによく生きられないからだ

自分は日本なり地球の人類界が全然あわないなと感じていた
幼稚園頃から
それというのも、敬うに足る道徳性の持ち主が殆どみあたらなかったからだ
高い道徳性の持ち主がいればその人の弟子になるべきだ
その人の徳を超えたらそれ以上付き従う必要はない
少なくともその人から道徳の全要素を学ぶべきだ

自分は同時代に聖人の類をみいだせないので
過去の世界史に探すしかなくなった
だがそれも調べ尽くした後では
恐らく自分を超える聖人はいない事になるだろう
ソクラテスのいう知行合一が真実なら
道徳とは何かしっていれば人は道を誤る事はない
学術の目的は人間界で
自分だけでも道徳的に生きる事だ