アトキンソン氏の政商的言説が決定的におかしいのは、経済全体で労働生産性ことひとりあたり付加価値額の低い生業が潰れてもいい、寧ろ潰すべきという金融至上で拝金主義の考え方だ。この考え方では利幅の薄いが生活に必要であったり、細かな需要にこたえているあらゆる生業が国内から消える結果になる。
利益率は商売全体の本の要素に過ぎず、それが高い生業が尊いとも限らない。寧ろ健全な市場では様々な利益率の各企業が並存し、多様な需要を支えている。或いはクラシックコンサートの楽団経営とか、詩作とか絵画など純粋芸術のよう全く利幅のない、しばしば赤字であってのみ成立する生業も存在する。もし利益率のみを企業の価値とみなすと、パチンコ産業の方が農業より遥かに儲かる事になり、公益性と明らかに反する結果が現われさえする。寧ろ経済学の見方によっては利益率の高い生業は「濡れ手に粟」の商売というにすぎず、或るからくり、特に何らかの独占的地位で競合が少ないだけとも考えられる。
完全競争市場では全企業は常に最大数の競合相手がいるため利幅が一定、またその極限では全生業の利益率が0になる筈であり、コモディティ(日用品)化が全生業について果たされると競争原理のよい結果が現われた事になる。いわゆる松下の水道哲学は、限界効用について別の言い方でいいあてていたのだ。即ちアトキンソン氏は巨視経済学の目的そのものを見誤っており、経済の最終目的は水道哲学でいう「全需給の完全一致」で、決して「利益率の向上」にはない、と知らないのである。利益率向上の圧力は或る企業が生き残る為に競合との関係下で置かれている競争条件にすぎず、経済全体の究極目的ではない。
或る経済圏を生態と考えると、その中で超大企業こと少数財閥のみが支配的地位を得ており、競合がいないに等しい状況はその経済圏が極相に至って、経済成長率がほぼ停止している状態だろう。そこでは新興企業に新需要が掘り起こされる事もなく、それもすぐ超大企業に吸収合併され管理価格が形成される。アトキンソン氏のめざしている国とは、その種の少数財閥支配の日帝下の体制、或いは現代韓国風の経済に他ならない。寧ろGHQが彼の母国である英国陣と共にわざわざその財閥解体を図ったのと、彼の現今の説は大いに矛盾している。もし米英が悪意で財閥解体を図ったなら今更再興させたがる意味は何か? 財閥が日帝の主な経済力を形成していたので、その地盤を破壊するのが米英による日帝解体の一貫だった。
だがアトキンソン氏はその英国からきて、再び大企業寡占市場こと新財閥を形成させようという。
この矛盾は、彼が日本市場の健全な競争性を弱め、中長期的に国力を減退させようとの説にすぎない。自民党スガ内閣をお雇い外人の立場から、明治政府以来の欧米劣等感に対し、暗に白人至上主義や西洋中心主義を前提に、明に拝金主義、新自由主義といった米英経済の思潮を元に唆せば、日本経済での競争環境を、財閥形成で悪化させる事ができる。その結果は国内経済の停滞、海外企業との競争的敗北だろう。表面上の労働生産性のみに着目し、市場での競争を国社主義的な干渉で阻害させるのは、成程、とんでもない過ちだ。その様な事を政府が繰り返せば、一体どこに需要があるのかなど誰にも把握できなくなるし、個人商店の殆どがなりたたず、寧ろほぼ全小売業がアマゾンだけになるだろう。経済学的無知だ。
「労働生産性が低い企業に、存在価値がない」という考え方は、基本的に間違っている。それは企業が存続する限り誰かが私有財産権を営業の自由の元で行使しているだけだからだし、利益率以外の目的、又はその意義がある会社であればこそ、生業がある。金儲けだけを目指すのがあらゆる経営ではないのだ。
例えば各地の住宅の施工はほぼ現地の工務店が担っているだろうが、もしアトキンソン説をそこにあてはめ全国の工務店を潰すとしよう。すると市場規模の大きな都内で量産型住宅を作っている大手の建売住宅会社しか生き残らない事になり、全国で似た様な家、ほぼ同じ型で安物の建売しか作られなくなる。或る特別な高級住宅とか、現地の事情に即した建物を作るに、都内最大手の建売住宅会社しか生き残っていない市場環境では、その実現すら永久に叶わない。特殊な設計はしばしば利益を度外視しなければ実現しえないからだし、そもそも南北東西或る環境で住宅事情は大幅に異なるので建売では不十分だからだ。
アトキンソン説では1人あたり労働生産性の高い企業が優れていると定義されるが(それが賃金が低い原因と彼はいう)、そもそも業種によって利益率は相当に違う。また労働者数も必ずしも労働生産性の順に並んでいない。
1人あたりの労働生産性の定義(付加価値額/従業者数)から、より少ない人数でより「濡れ手に粟」な競合の少ない市場寡占或いは独占的地位をもっているほど、アトキンソン説では優れた企業と定義されてしまうが、それでいくと分母にあたる労働者数の多い(人手の要る)産業は、劣等企業に格下げされる。即ち製造業の一代表者といえる日立(日本一連結従業員数の多い会社)や、トヨタ(日本一の時価総額を持つ会社)は、いづれも1人あたりの労働生産性あるいは利益率の面で、少人数で暴利を貪りうるネット証券、ソフトウェア、パチンコ、クレジットカード、携帯電話、銀行、消費者金融などに劣る事になる。
果たしてこの定義が正当で、まっとうなものといえようか? 直感的に常識の目で見る限りでもかなり違和感のある説だというべきだろう。先ず既に競合が多い故、人手がかかって大変な割に利幅が少ない産業があったとして、労働分配率の面で優秀な生業がある点を見逃している。
確かに一人あたりに馴らすと、情報通信業(利益率の高いネット証券・ソフトウェアビジネスなど)をはじめ原価、経費、かつ自動化などで人件費がかかり辛い生業が、少人数で高い給与を得ている事になる。
だがこれも一時的な事で、現実には競合が集まればそれら業種の利幅も徐々に減る事にもなるだろう。即ち、業種別で見る限り、競合が多いほどその生業では熾烈な競争が行われ、高い質の製品奉仕になるのと同時に、利益率は競合との値下げ合戦で一般に下がるだろう。それにも関わらず、特に教育・学習支援、社会福祉・介護など、労働分配率の高い(儲けを給与に回す労働者主義的な)業種がある。また労働分配率では製造業の方が情報通信業より高い様に、裏を返せば、より「濡れ手に粟」式の暴利を貪っていないと言う事ができる。アトキンソン説では一人あたりの給与総額が労働生産性と比例関係かの様に関連づけられているが、現実には労働分配率の計算式が示す様、人手がかかる生業があるだけだ。
まとめると、英国経済が凋落した主因は、アトキンソン説にも彼自身気づかずに内在されているといっても過言ではない。労働者全体の給与こと労働分配率あるいは業種別の利益率を考慮せず、単なる一人あたりの利益こと給与総額や、一人あたりの労働生産性だけで物をみているので、木を見て森をみていない。特に付加価値率(売上高付加価値額率)をみると、アトキンソン説の破綻が明らかになる。彼が真っ先にきりすてたがるだろう「従業員一人あたりの給与総額」「労働生産性」いづれも大変低い社会福祉・介護業は、人手がかかる一方で、実際には最も高い儲けをあげている、最優等の業種になるからだ。
なぜアトキンソン説が斯くほど大幅な――寧ろ初歩的といってもいい誤りを犯していながら、彼自身その経済学的錯誤になんら気づかないか。彼が経済分析に用いる各指標間の整合性や体系性を総合的に理解する知能を欠いているだけではなく、いわゆる経世済民の究極目的を「個人の私利」と見間違えているのだ。私がここで述べた事は、経済学者の殆どはいうまでもなく、単なる並の経営者の中でも、経営学の修士程度なら十分に理解されている事、或いは理解されうる事だろうし、その程度の知識水準にすら達していない人物が、わが国の政府にロビー活動の様な事を述べるのは完全に僭越極まる侮辱と言うべきである。国の経済政策、或いは財政はその全体の公益度を鑑み、最低でも経済・経営および財政学の体系的理解がその国で最高度の人物ら――但し、見解の正しさが重要で、学位や経歴によるものではない――によって最善の方途が議論されねばならず、一部の奉仕者たるに過ぎない人物は完全にその資格を欠いている。
給与は単に人手の要らない「濡れ手に粟」こと少数精鋭の業種に、人員を大量投入してあがるわけではない。寧ろそれは計算式からも、一人あたり給与を下げてしまう。
また企業規模でわが国の殆ど――企業数で99.7%、従業員数で69%、付加価値総額で約53%(中小企業庁『中小企業白書2019』)――を占めるのは中小企業だ。
アトキンソン説では、単にこの表面上の大企業の一人あたり労働生産性の高さにのみ注目し、財閥式に少数企業に市場を寡占させれば――恐らく経営ノウハウの伝授や、業務合理化などで――数字の上での労働生産性があがると判断しているのだろう。いうまでもないが、それは市場で自動的に行われる筈の事だ。買収と合併、起業・倒産などの再編によって、健全な市場競争の下で、会社は個々でより合理的なもの、いいかえれば市中の需要を満たし、適正以上の利益を継続的に上げられる経営主体が生き残る事になっている。わざわざ国の政府が何らかの圧力を加え、財閥を作らせたがる等まったく無意味で有害な干渉だ。最早この「当たり前」過ぎる事、即ち古典派理論について、まともな経済学者の誰もアトキンソン氏によるスガ首相とのロビー風説に、常識以前の批評を加えないのは、アトキンソン氏の不躾さや無学の程に呆れ返ってしまっているからだというのが私の見立てだ。それ以外の理由で、財閥に合理性など一切ない。