2020年9月9日

なぜ東京文化人界の風通しがしぬほど悪いか

僕は昔から東浩紀があんまり好きではない
だから向こうからブロックしてきてくれたので
以後エゴサでもひっかからなくなって楽だ
会田誠も好きではないから
向こうからエゴサでブロックしてきてくれた
ツイッターにも利点があるなら
端から嫌いな人合わない人が
勝手にブロックしてきてくれる所である

一方でブロッカー当人は非常に不利だ
なぜなら敵対勢力の動きが読めなくなる
兵法的に間違っているのはいうまでもない
長い目でみればブロッカーは敗北者といえる
そもそもブロックしようがサブアカでみえるし
挑発という意味しか為していない
エゴサしてる様な自己愛傾向ある人が
自滅行為してるだけ

ある意味、ツイッターでは計算高い当たり屋行為みたいなのが有効打になる
僕は初めそれを意識していたわけではなかった
津田大介という人が僕があいちトリエンナーレ2019批評してたら
向こうからエゴサで絡んできて対話してたら
最終的に向こうからブロックしてきた
議論するつもりないなら無視すれば? といったのに

僕が今考えるに言論の自由がある国で
ブロックには何の利点もないと思う
他人の言説は封殺できないし
犯罪者の動向を収集すれば名誉毀損裁判で飯の種になる
ドラえもんの「どくさいスイッチ」とブロックは何も変わらない
この点でもブロッカーって情報社会にふさわしい知恵があるとはいえないと思う

それはそうとツイッターにいる日本語圏の知識人
総じて質が低いので僕はもうやめたいやめたいと願ってきた
朱に交われば赤くなるならツイッターに馴れてしまうと
ろくでもない連中の一員と誤認される結果になるし
知らずしらず堕落する事がないともいえないからだ

英語圏なら少々ましなのかと思いきや
ドーキンスが上限ぽいし
そのドーキンスもツイートをよく読むと
本より遥かに劣る様な知性だという風にしかみえなくなってしまった
彼のツイートより本の方が凄く良くできすぎている
普段の彼は有神論者に捻くれた嫌味いう典型的イギリス系スノッブにみえてしまう

ドーキンスへ直接絡みに行った事があるんだが
見事にスルーされた
彼の視野って主に西洋と中東・アフリカの間に限られてるらしく
日本からしか見えない目線で鋭い指摘した筈なんだが
大勢が絡んでるしそりゃ見逃すんだろうが
対話が成立しないのも確かである
というか僕は彼に失望してしまったのだった

どういう事かというと
西洋の英知って上限が西洋中心主義だとわかってしまったのだ
日本って西洋からも東洋からも学んでおり
僕の場合、中東からも積極的に学んでいるわけで
というか偏見なく全世界から学んでいるので
どうみても僕の方がドーキンスより視野や知見が広いのだった
仏教にすら彼は無知だ

ドーキンスの仮想敵は有神論者で
それが彼の中では重要な知的主題らしいんだが
僕は生物学から導かれる現代哲学の問題を扱ってるんだろうとばかり
彼の著書から読み取れる限りは思っていた
でもリアルの彼は唯の典型的な保守的西洋人で
毎日のよう中東イスラム系の迷妄を罵倒していたのだった!

僕がどうドーキンスに返信したかというと
「無神論も一つの宗教ですよ」というものだ
そりゃそうだろう
彼が宗教は迷妄だというんだから
それなら無神論も、あらゆる信仰のうち一つの立場だなんて自明である
神性の定義なんて日本みたいになんでも神なのもあるのに
彼はそれすら全然わかっていなかった

僕の目にはドーキンスの哲学的レベルは
正直、その返信前後の彼の言動で物凄く低いと感じられた
だって仏教すらろくに知らず無神論を語ってるのだ彼は
それなら無神論や無宗教は無論自然崇拝、汎神論、多神教、偶像崇拝などなど
無数の思想が生きている日本なんて彼の理解を超えているのは明らかだった

僕が接したほかのイギリス人、或いは西洋人らもそうだったが
正直、東洋思想を殆どかけらも理解しておらず
原始仏典や『論語』に手をつけた事がないなんて次元であった
そんな連中が驕って
西洋が知的上位者だなんて科学主義の行き過ぎである
当たり前の様に日本思想の詳細なんて彼らに分かる筈がない

ドーキンスも、所詮そのレベルと
ツイッターでの軽い絡みですぐ悟り
僕は完全に騙されていたのだとわかった
いわゆる旧帝大輸入学府、明治政府的なものであり
欧米ならなんでも偉いという妄想だったのだ
無神論なんて大昔からある考えで
今更リバイバルではやってるのも
唯の西洋ナショナリズムだった

ある意味で僕は明治以後の日本の知識人のうち
決定的に重要な改革者であり
思想の革命家といえるのだろう
より正確に言うと僕以後、日本の知識界は
明治由来の欧米追随から離脱する筈だ
その最初の前衛であって決定打が僕なのだろう
西洋思想、米国思想を丸ごと学んでから
守破離で国風化する先鞭役だ

さきに書いた様
僕はイスラム思想とかもとても興味深く勉強してきた
特に絶対服従を巡る武士道との共通性が懐かしかった
何も欧米思潮だけでなく
なるだけ全世界の考えから優れた点を習い
自家薬籠中の物としなければならない
欧米思潮の追随者で終わってる輸入学府の連中は
知的に劣っているといえる

じゃあ冒頭にもどるが
なぜ東浩紀が好きではないか
先ず僕はオタクカルチャーが嫌いである
東京も基本嫌いなんだけどオタカルはもっとだ
第一に生理的に気持ち悪いし
しかし敵対勢力なので十分に研究はしてきた
総じて幼稚で品性下劣な東京人の慰み物である
最近は偉がってた京都人も真似だして笑えるが

オタカルは下品で低俗な東京商人文化である
それは江戸の浮世絵、春画など町人文化の現代版だ
だからオタカルの逆が本来の高貴な美術だとわかる
当然僕はそちらに進もうとしてきたし今も進んでいる
上品さは下品さの逆の道である
この点でオタカルファンの東京人東浩紀も僕にはずっと反面教師だった

大体、浅田彰も知識人として
結構興味深い著書のある柄谷行人に比べ数段劣ると思う
浅田には訳書もどきの類しかない
柄谷も比較批評という様式で独自色は少ないが
少なくとも世界史的構想を語ろうとしたまでは評価できる
柄谷の中では協会主義が資本・共産主義の板挟みからの止揚だったのであろう

それでその柄谷も
いわゆる哲学者に比べると独創的な考えを持っていない
それ自体は落ち度ではなく
思想史家で思想家ではないという事なのかもしれない
孔子も述べて作らずというよう生涯学習者のつもりだったろうし
車輪の再発明的に程度の低い独創もあるだろう
しかし歴史的次元としては微妙な質だ

同時代人だったデリダの脱構築と総称される考え方――西洋哲学上の口語中心主義からの、差延の論理使った転換や、ずらし――とか
ガウタマから遥か遅れて動物倫理学とかいいだしたピーターシンガーとか
この辺りの人達と比べて柄谷の協会主義に実践性があるか微妙な部分がある
彼の政治はいつも失敗だった

純粋に社会思想的な目でみて
柄谷が過去の思想家らの著書から
協会主義をとりあげ強調したとはいえるが
それが本当に未来の社会原理を指し示しているかはまだわからない
企業も中共も多大な力をもっていて
生協やらなんちゃら協会の規模はそれらに国力単位でまだ十分対抗できているともいえないからだ

それにもかかわらず
東浩紀は柄谷に比べ浅田からすら更に数段劣る批評家だ
それが僕の読んだ範囲だ
オタク批評での動物化の概念
これもオタクがデータベース消費とかいうパターン化した発情に馴らされた家畜に過ぎないという
かなり下流視とも差別的ともいえる言説だったのに
以後深堀りされずおわった

東は途中で三文小説書いたり
急に中小企業経営しだしたり
迷走続けてごった煮雑誌つくったり
自分からカオスラという魔の副産物をもちあげ
或いは村上隆と連携しつつ猪瀬都知事と都文化政策に口出しかけて失脚したり
福一観光地化といっていたのに地元民の気持ち無視と疑義され頓挫したり
全部中途半端だ

何か一つの事をしっかりやり遂げた方が
器用貧乏でどれも無意味に終わるよりましだろう
それで僕はユーチューブライブで彼に
批評しろ
と忠告したらブロックしてきやがった
一言で本当の事を教えたのに
良薬を口に入れない人間は救われない
その人は自らの失敗に学ぶしかない
この点も反面教師だ

実際この忠告前後から
彼は津田大介氏と協働していたあいトリで天皇ディスを科って大炎上
裏では黒瀬陽平氏の淫行もあり二重に足下掬われていた
偶然にも同時期とはいえ余りにできすぎた話だ
僕に喧嘩売ってきたやつがかなり早く自滅する例は多い
会田誠もだけど裏で安西彩乃氏に仕事手伝われてたり

津田氏と会田誠はあいトリ検閲反対で協働側であろう
という事は間接的に東浩紀とは擬似的な対立関係になってくる
東はあいトリアドバイザー辞任後
津田氏と友人関係きれたと津田氏が書いていた
最近、モギケンが東の次の仕事相手になっているが
2度ある事が3度あるならモギケンもやばいだろうと思う

モギケンは人誑しの傾向があるスーパーコネクタータイプなので
三浦瑠麗とか御用学者と東を繋ぎとめる役割も果たしている
御用学者が安倍一味の没落後どうなるかは火を見るより明らか
という事は長い目でみて東のカフェ経営はやばい人材を集中させていたと
世論の非難の眼差しが集まってしまうのも確か

ここまで岡目八目でみえるわけだから
そりゃー近づけないだろう君子は
飛んで火に入る夏の虫
次の大炎上前に逃げられれば焼死も防げるだろうが
敢えてその危険を冒す必要とてない
会田誠もいよいよ時代にあわなくなってきており
フェミニズムからもモラリストからも天敵視されつつある
自業自得だが

そこで僕がみていたら会田は
さも純情ぶった小説を出して
いわゆるエログロナンセンス画家としての面目を躍如しようとしていた
姑息な手だと感じたので
批判のつもりで僕も『18才の自伝』を書きかけだが
漱石が『三四郎』を対鴎外の『青年』で書いた時の心情と似た様なもんだろう
本物の画学生たる青春はこうだと

この東京文化人界のコネ社会みたいの
例えば僕と同世代だと落合陽一や古市憲寿が
思いっきり内部でドヤっているが
僕は終ぞ近づかないであろう
だって完全に腐臭しかしないきなくさ談合業だ
そんな安倍友級の側近政界
公明正大に全世界へ開かれた批評空間作りの為
是非とも地上から一掃して貰いたい