僕以外この宇宙で誰も言ってないと思うが、
セクハラの対義語を自分が開発した。
数年前に開発した。
セクハラの反対は性的喜ばせ、sexual delight、
セクシャルディライトでしょ、って僕がいったら、
ある宇治人(女)に一瞬でセクディラ? と略された。
セクハラセクハラって流行語になっている。
俗世で。
勢い乱用されやすい。
が言われた側は、
嫌がらせするつもりもないのにしばしば言われるので、
心外である。
そこでセクディラという概念が必要である。
結局、喜ばせなのか嫌がらせなのかって、
それを受け取る側の主観なのである。
問題が厄介なのは、
この世には被虐性欲の人がいるので、
性的嫌がらせを拒絶しながらも好む人もいる事だ。
ある大手アダルトサイトの調査によると、痴漢を検索する女性が2位とかである(FANZA REPORT 2018)。
という事は、一般日本女性に暗い欲望として被虐快楽のきらいがある。
軽い被虐を暗い欲望として欲求している。
だが被虐性欲の人がどの程度の被虐度を欲求しているかは、
その人自身の主観に委ねられている。
これゆえ第三者、或いは嗜虐側にも正確に見てとれない。
結局ここでいえるのは、性的嫌がらせと喜ばせの差は、
いわば当事者の主観に依存している事実だ。
単純に二分できるものではないし、よく裏返る。
セクハラはその嗜虐快楽部分に限れば、
嗜虐側のセクディラの一部と考えられるし、
逆に、被虐快楽部分に限れば、
被虐者にとっても快適でありうる。
しかしセクハラ・ディラが受け手の快楽と一致していない場合、
すなわち嗜虐・被虐快楽の類が、
当事者らいづれかに度を越えて不快な時、有害となる。
嗜虐・被虐快楽の組み合わせを仮に、大雑把に場合わけすると次の様になる。
嗜虐快楽の攻め手×被虐快楽の受け手 → セクディラ
嗜虐快楽の攻め手×被虐快楽でない受け手 → セクハラ
被虐快楽の攻め手×嗜虐快楽の受け手 → セクハラ
被虐快楽の攻め手×嗜虐快楽でない受け手 → セクハラ
嗜虐快楽でない攻め手×被虐快楽の受け手 → セクディラ
嗜虐快楽でない攻め手×被虐快楽でない受け手 → セクハラ
被虐快楽でない攻め手×嗜虐快楽の受け手 → セクハラ
被虐快楽でない攻め手×嗜虐快楽でない受け手 → セクハラ
つまり、攻め手が嗜虐快楽かそうでないかに関わらず、受け手が被虐快楽なら、なんらかの性的扱いがセクディラ、性的喜ばせになりうるわけである。そしてこれは度合いともいえるだろう。強度の被虐快楽の人には、強い嗜虐の方が快適に感じる。しかし大抵の人々は軽い被虐趣味に留まっているだろう。
又これは嗜虐被虐の二分法濃度論で分析した場合だが、現実にはより複雑で、例えば好意を持つ相手または当人にとって性的に美しい(性的魅力がある、または繁殖に好都合)と感じている攻め手からの性的行為の時には、それをセクディラとみなす傾向が高まるといった主観原則が一般にあるだろう。
最も性的喜ばせの傾向が高まるのは、受け手が被虐快楽の人、かつ、その人が性的興味を持つ相手が攻め手の時だろう。これで一般に性的魅力があるとみなされる美男の俳優(或いは美女の女優)などが、被虐快楽の傾向があるファンにセクハラで訴えられる可能性が、きわめて低くなる理屈が説明できる。
私的性関係の範囲でも同じ快楽原則があてはまるので、ある受け手がある攻め手に性的興味をもっている場合、一般に性的扱いがセクハラ(性的嫌がらせ)と判定されず、セクディラ(性的喜ばせ)と判定される。
この世でセクハラがあるのは、受け手の性的興味・被虐快楽度を見誤るか、無視するせいだ。
裏を返せば、受け手の性的興味・被虐快楽度を程あれ正しく判定できていて、かつ、奉仕心がある人か、嗜虐快楽傾向の人であれば、セクディラに限って性行為できる事になるだろう。
似た様な行いをしていてもある人は喜ばれある人は嫌がられるのは、大まかに、上記の快楽原則が背後にあるからだ。