現代の科学論文って、なぜか引用主義が追跡可能性の点で査読誌通過の必須要件みたいになっていると思うのだけども、自分の知る限り過去の偉大な科学書(『原論』『自然哲学の数学的原理』『種の起源』等)って決してそういう形式を取っていない。引用主義は流行歌の文法みたいな物に過ぎないのだろう。そうであれば、引用回数を主な評価関数の一角にしてるイギリス系の大学ランクもいんちきという事になり、あまつさえそれって英語論文を対象にしてるんだから英語帝国主義の一部でしかない。
僕にはアカデミズムが総じて莫迦の集まりにしかみえないのもあるが、発信は基本、母語でやるべきだと思う。
現代の査読誌にのってる研究者って相当数いると思うが、彼らの殆ど全数って別にさしたる意義もなく消えている。だって雑誌なんだもの。雑誌に寄稿してるから偉い訳ではない。ファッション雑誌に載ってたら即お洒落なのではない。単に載ってるだけだ。当時の流行雑誌掲載だぜいとか、俗物根性の道具だ。
なんで大学関係者が必死になってそういう雑誌形式の中でラットレースしてるかといえば、凡そ全て就職の社会証明の為だといって過言ではないだろう。唯の知的な啓蒙の為だったらブログで十分すぎるんだもの。どんな形式でもほぼ書けるんだから。どうせPDFで出してるんでしょ、論文だって。
大学教授に何かの科目にまつわる知識を習うのはいいにしても、英語論文で国際的に認められました、偉い賞を貰いましたという所を科学者の栄達だと考えている人々は、僕のみるところ一人の例外もなく俗物に他ならない。だから実際の所そういう低レベルの人達を僕は前から軽蔑していた。今もしている。
軽蔑する人達には近づかないに限る。同類だと思われたら損害しかないのだし、悪習もうつる。
雑誌読んで勉強するのはいいかもしれない。僕もかなり読んでいた。数理科学とか。けど最終的に感じたのは、大学教授の互助的な趣味の世界だとしかいえないことである。実践性や、革新性が全くない。
下らない人とつきあいができると、その体面で褒めたくもない俗人をほめないといけなくなったり、いわゆる社交辞令というものが出てきて色々と堕落してしまう。自分も無論なるだけお世辞なんて言わない方向で生きているにしても社会と少しでも接点があると、必ず社交性、外向性が生じてしまう。自分を観察してる人は自分の真の内面なんて知るよしもない。
そこからいうと、はっきりいって、アカデミシャン(学会、大学関係者)の世界って正真正銘の社交辞令しかないといっていいであろう。それが極度にいくと受賞する。あんなの学術的業績と、嘘抜きで殆ど無関係の部類である。ホーキングの一生を見たらいいと思う。アインシュタインも光電効果で受賞だ。同時代でイイネといわれる様な業績なんて、どれも大した事はない。だって同時代にほぼ同程度の知者がいるから評価可能なんだから。圧倒的に優れた業績だったら死後ずっと経ってからしか誰にも追いつかれない筈なのだ。常にその未来にいない限り、ある人を天才だと呼ぶのはおこがましい限りである。同時代でのらりくらり演技して、世渡り巧者みたいに生きている器用なだけの偽物も多い。僕は大体が一発でわかるけど。流行もしていたけど不易でもあったウォーホルみたいな例外はいると思う。でもそれも、圧倒的に不易で流行とか一切無視してる本物の仙人的天才から比べたら、所詮は俗人かと思う。
ラマヌジャンは証明すらしてなかったと。要は今でいうなら引用文献書いてないでつらつら真理だけ述べてるみたいなもんだ。検証できないから雑誌形式では除外される。でも真理述べるのが目的でしょって話だ。現代のアカデミシャン全般に、真理探求なんて一切できていないのがこれで明らかであろう。序破離じゃないけれども、大学で習う様式論みたいなのは飽くまで基礎、(今の芸大美大で特にやらんが)デッサン。それ完璧にできても独創性と特に関係ないかもしれない。
自分は直感的に独学を選択し今に至るが、飽くまで自力で歩かないと不易なる小さな門を見つけられないと思う。経験的にもそう。真理を着実に見つけていけば、その人の業績は千年後も万年後も、人類史を辿る人が必ず参照する。だが、それと今日のアカデミズムは大分目的が違っている。彼らは結局、同業組合で権威稼業したいだけだろう。悪い仲間とつきあうくらいなら孤立していた方がよい。悟った人の様に学派の外にいるべきだ。