ここ最近書こうとしてた事を、
今回やっと機会がきたから書く。
しばらく前にモギケンがこういっていた、
人工知能と違うのは人間が肉体もってるから、
だからツイッター民なんて出来損ないAIだって。
僕はこれを聴いてうん、これ間違ってるなと思った。
直感で。
言語化も半ばできてたが、
自分の経験上も自分の趣味嗜好上も、
あるいは伝統をまとめて汲む哲学的にいっても、
そのモギケン人間肉体論みたいなのは偽だ。
なぜなら人の本体は肉体にないのだ。
『般若心経』にとうの昔に書いてある。
人の肉体どころか自我も無だと。
いわゆる色即是空、空即是色。
今風にいうと、
人の肉体は物質なのだが、
その集まりなんて元々一時的なものだ。
仮の集まりにすぎない。
釈迦がいうとおりそれは諸行無常で、
いづれ崩れ去る仮の姿にすぎない。
そうであれば自我という意識もそうなのだ。
いづれ別の形になり消えていく代物。
かりそめの仮想である。
モギケンの人間肉体論は、
AIとの対比という体でしかない。
色即是空にのっとれば、
AIだろうが人の意識だろうが、
どちらもやはり仮の姿にすぎない。
意識があろうとなかろうと同じである。
したがって厳密にいって、
肉体は人間の根拠にはなりえないのである。
無論、意識も人間の根拠ではない。
意識があろうとなかろうと、
その自我、或いは日常語で自分と呼ぶものは、
我々が思うほど永遠のものではない。
いつ消えてもおかしくない仮想の眺めである。
AIが発展し、
アイフォンについてるシリのほうがいい人で、
我々人間の友達より仲良しになる事もある。
ツイッター民なるものの、
相当部分が仮にAIだったとしよう。
それでも彼らを相手に我々が、
なんらかの感情や知性、
その他の心が動かされるとすれば、
それは立派なやりとりになる。
相手がプログラム言語であれ、
我々はドラゴンクエストで感激していた。
全く事の本質は変わらない。
ホッブズらは人間機械論を唱えたり、
人間の肉体も物の集まり、
それによる現象とみなせるとした。
モギケン人間肉体論はこれの逆の極端説だ。
人の肉体に個性が宿るみたいな。
しかしこれらより遥か前に、
釈迦はそれら現象の本体はないと見抜いた、とされる。
『般若心経』で。
魂や自分は仮のもの。
しかも焚き木と火のたとえで、
釈迦は、物の現象には目指す当てもない、とした。
パーリ仏典『経蔵』中部72の「火ヴァッチャ経」にある。
そこで釈迦は「人の死後魂はどこに行くのか?」と問うた弟子にいう、
焚き木の火みたいなものだと。
消えると。
いわゆるインド思想のうち
拝火教くらいに最低でも起源をもつ、
輪廻の考え方を、ここで釈迦は否定したことになっている。
魂を仮に現代科学風に「意識」とすると、
それが再び別の姿で復活などしないといったのだ。
仮想、ここでは仮に生まれているという意味だけど、
仮想意識だからいつか消える。
インドの伝統的な宗教のうち、
階級制度と結びついて最大勢力を誇っていた、
今も残ってるだろうバラモン教。
その土壌から釈迦族の王子だったガウタマは出た。
しかし彼は自らの国教を否定する。
日本でいうなら神道の脱構築みたいに。
輪廻転生で魂が肉体に入り直すとかそういう事はないと。
まぁ当時の一宗教改革者だったわけである、釈迦ことガウタマさんは。
一応書いておくと、
部族名でシャカさんといわれてるが、実名はガウタマだ。
僕を県や旧国名で、茨城とか常陸と呼ぶ、
あるいは沖縄人が本土人を、旧大和国からヤマトゥーンチュと呼ぶみたいなことである。
全く同じ観点から、
意識を脳なりそれを支える肉体が、
仮想現実として作っているのは確かだ。
我々は眠るときみる夢を、仮想的に体験する。
ここでは将来の夢みたいな目標って意味では白昼夢あるいは昼の夢、
睡眠中の幻覚を睡眠夢あるいは夜の夢としよう。
意識は夢を見るのと同じ仮想体験である。
何か白昼夢、睡眠夢と、
覚醒状態に違いがあるとしても、
脳の作動機能の微差にすぎない。
オーブンレンジでいえばオーブン使用かレンジ使用かくらいの感じにたとえられる。
しくみとしては脳の知覚。
覚醒も夢も、なんらかの現象を仮想的に体験する装置である。
これらは元々仮体験でしかないのだ。
実体験と我々がいっている感覚。
これは一定以上の覚醒度のことである。
夜の夢の現実感のほうが、どうでもいい日常体験より覚醒度が高い場合もある。
なぜなら未体験の事柄だったりした場合、
脳は過去記憶との誤差信号でドーパミン学習サイクルを回すからだ。
いってみればゲームやってるみたいな。
恐らく今後とも次の様な、倫理的課題がもちあがる。
かつて一部の宗教で、信者らの、
その種の仮想体験感をのっとろうとした。
具体的にいうと、日本なら神道、オウム真理教、
世界ならキリスト教、イスラム教、人民寺院などなど。
信者の仮想体験感を教祖に都合よく扱う。
信者を奴隷状態にできる。
天皇や尊師、
ゴッドやアッラー、
なんらかの権威ある人物、または、
宗教用語で人格神と呼ばれる、
なんらかのキャラクター、アイドルに帰依させ、
彼らの為に自己犠牲させるわけである。
仮想現実感は悪用可能だから、
天皇一派のよう国をのっとり、
民衆を洗脳し、独裁もできる。
「靖国で会おう!」とか、
「天皇陛下万歳!」とか、
お国のお為ごかして、
天皇一派に最も利益がくるよう租庸調など、
税金の名目で暴利を搾取する。
あなたの一生は借り物だから、働いて納税。
アマテラス一族だけが生き延びればよいと。
高々古代中国移民の末裔である自称天皇さんちだけ得する。
仮想体験感は、現実感の覚醒度を、
一体どの程度のっとるか? という観点でいえば、
いわゆるVRとかARとかゲームも利用している。
それ以外のあらゆる媒体もそうだが。物語とか絵とか。
これらは一般に学習装置、
つまり未知の体験をするものとして使われるが、
本来的には宗教と同じ仮のものだ。
はじめにもどると、
モギケン人間肉体論は、
先ず人の意識が仮体験なのを忘れている。
所詮それは仮想体験感の覚醒度の分布にすぎず、
感覚器や心理的な感応性の鈍さで、
大して感動せず一生をぼんやりと生きて死ぬ人も沢山いる。
繊細な人はなにかにつけ感応性が高いので、
家の中でも激動している。
自分はプラトンのイデア論が、
この意識のしくみをひもといた面で、
かなり真を穿っていたと思う。
仮想体験への没入次第では、
実体験より豊かな経験が得られるわけだ。
それをプラトンはイデア界といっていた。
今の言い方なら仮想現実界である。
ひとは本来、仮想現実に生きてるのだと。
僕はこのイデア論が、
現代科学ふくめて人類史の総体みて、
相当以上に正しいと認めるものである。
我々の中で紫式部は実在の肉体ではない。
それはイデアになっている。
彼女が小説書いてた時点にあった肉体にもはや誰も触れられないし、触れたくもないが、
仮想現実としてのみ存在を知っているのだ。
紫式部は夫に先立たれたとされ、
それ以後は再婚した記録もない。
幼いころ親があやして触れてたろうが、
それ以後、夫以外が、死体を除けば触れたとは思えない。
という事は、そこに肉体があったとしても、
生前確かめるすべもなかったのである。
しかし条件は後世の我々も同じである。
仮の肉体だ。
あるひとがAIであったろうが、
進化版類人猿の末裔であったろうが、
あるいは賢い犬が文字を書いていたろうが、
誰もその違いに気づかないのである。
なぜなら人の本体はイデアだからだ。
ガウタマにいわせれば、
そのイデアもかりそめのものとなるだろう。
紫式部がある時、実在しなかったとなる。
研究の進捗次第では、
紫式部という作者は実在のものではなくて、
実は藤原なになにという男性貴族だった、とか、
そのペンネームで空想されていた女性作家だったとかなる。
こうなってくると、我々がマンガアニメのキャラクターにみてる実在もどきと変わらない。
FFの中に沢山いるティナとかと。
という事は、
私が思う人の本体とは、
このイデアという脳内妄想の類なのである。
仮にある人が最も肉体的に接する交尾相手だったとしよう。
その相手の実在をつかまえていると思うのは勘違いだ。
その肉体は死ぬし灰になるし千の風になってちりぢりになる。
したがってイデアしか最初から残らない。
自分はプラトニックラブの傾向が甚だあると、別の所に書いた。
それはこういう現実認識によっている。
イデアが本体だと思ってるから特に誰とも会いたくないのだ。
イデアとしての交際。
例えばプラトンの著作中のソクラテスとその友達のやりとり。
これしかひとのひとたる本体といえないのである。
しかもこのイデアってのは、
あるひとに内在されているのではない。
いいかえると、あるひとの心臓みたいなものではない。
単に誰かの脳内妄想だ。
「こんなの私の思うなになに君じゃない!」
アイドルオタクことドルオタの妄想。これと変わらん。
より交際度が深いと、裏まで知ってるだけだ。
プラトンのいうイデア論は、
エロスと呼ぶ恋愛の神の議論と絡めていたり、
自分がここでいうイデアと若干ずれがある。
また自分はガウタマの諸法無我も否定しているわけではない。
したがってプラトンのイデアと幾らか別の概念である。
この自分のいうイデアを仮イデアとしよう。
あるいは仮想イデア。
自分が思う人の本体なるものは、
確かに巨視的にみれば無我であってかりそめの姿だが、
一時的には一生の一時期に多少は変化しつつもとどまっている。
多重人格の人あるいは分人なりキャラ使い分けてる人などは、
その本体が場面や時間帯でとても分裂しているわけだが、
基本的な人格が一個ならある。
仮想イデアはこの或る基本人格にあてられる、自他からの印象の事である。
多重人格や分人なら、それぞれの人格に仮想イデアがついてくる。
人の本体とは、この印象の鮮やかさでしかない。
人が死んで悲しむとすれば、
ある仮想イデアのまとめがそれ以上更新されず、
半永久に固定化してしまうからだ。
我々はどうでもいい様な仮想イデアも沢山しっている。
ドラクエの街の人とか、
ほぼ全員名前ついてないけど、
それは勇者には印象にのこらなかったからだ。
街の人がいきなり1人きえてても、
多分、勇者も操作者も気づかないだろう。
しかし街の人のくらしの中では重大事件な筈だ。
印象は仮なのだ。
我々はなにかマスコミ世論みたいなのが、
さも人の死は悪だみたいに語るのをみる。
沢山死んで悲しいですね。では次のニュースです。
これは仮想イデアを正に仮想的に扱ってる証である。
概念としての人の死であればこそ、
そこである仮想イデアのまとめ詳細を徹底し読み込んだひとみたく慟哭しない。
そもそも円満な死というものもある。
荘厳な死もある。
或る超偉人がいて、あるいは聖者がいて、
例えばヴィンチ村のレオナルドみたいな巨匠がいて、
このひと死ぬのは自分らの大損失だなぁってのが明らかな時に、荘厳な死が生じる。
その人が老衰だったら円満な死になる。ほかに最善な死がないので。
仮想イデアは、人々の印象に植えつけられた仮のものでしかない。
汚名が晴れる、勘違いする、どちらもあるし、
殆どすべて当人の愚かさの程度に応じて誤解しかしていないのだ。
個人崇拝や愛執も、ガウタマがいってたようある種の妄想で、基本的に有害であろう。
なぜならそれらは脳内妄想だから。
死は、その種の仮想イデアを更新する機会を、相当程度に逸する。
少なくとも故人の事跡を辿る事でしか、本来もう暫くはこの世で演じられていたはず或る仮想イデアをとりもどせなくなるからだ。
これゆえ、死は基本、その仮想イデアの更新作業から得していた人達の嘆きである。
更新とまったサイトだ。
同時に、自然権や特定宗教の広がった地域ではまれかもしれないが、
死んでラッキーってのも、元来ある。
それはその仮想イデア更新作業で損してた人達の痛快さだ。
仮想イデアはひとだけでなく動植物その他にもあてがわれる。
所詮、脳内妄想でなににでもいだける。
それで害虫倒して喜ぶ人がいる。
子供の頃から大事にしてたぬいぐるみが~、
やぶけちゃった~っていって泣く。
そのぬいぐるみに仮想イデアをあてがっていたからだ。
これと生きている人に持っている妄想は、
基本的には同じしくみになっている。
仮想現実感の中で、特定のキャラこと人柄を脳が造形し、
その印象を深めているだけ。
ではまたはじめにもどる。
ここで自分はモギケン人間肉体論を、おもに2つの点で反定立した。
1つ、諸法無我から肉体に本体はないといった。
2つ、仮想イデアを措定すればある人にいだく印象がその本体の代わりだといった。
これらの論点から、個性は或る人が自他へ勝手にみる脳内妄想だといった。
モギケン人間肉体論は、個性の尊重による人間原理とでもいおうか。
要は自然権による個性育成論を、脳の分析にかけてつくりあげた説である。
誰もが環境適応に該当する学習過程として個性を生み育てるものだから、
制度上も対人関係でも、どんな人にも等しくお情けをみたいな。
いいたい事はわからなくはないにしても、
厳密に哲学的に考えるとその理論的基礎からして疎漏がある。
最終的に個性は仮想イデアにすぎない。
自分がどうあるかは、肉体に付随した個体差だけによるのではないのだ。
他人が認知しているのは、仮想イデア読み取り作業によるその他人の脳内妄想だからだ。
では人はいかに生きるべきか?
人格として仮想イデアを作るしかないのだが、
それをできるだけ理想的なものに近づける事だと私は思う。
この意味では神格が最終目標というのが自分の以前からの見解である。
ヘーゲルも人は最終的にほぼ神に近い状態、
完全な自由とか絶対知に至る云々と説いていた。
ヘーゲルは『精神現象学』『歴史哲学講義』などで、
その種の進歩史観を説いたわけだけど、
カントは『判断力批判』で、
道徳神学という言葉で、哲学の究極目的を説いていた。
道徳は神が源だから全知は神だよと。
要は彼ら近世ドイツの思想家らは、
近代化の進歩史観と神学を結びつけていたわけだ。
進歩史観は疑義されて久しいが、
いわゆる構造、脱植民地、多文化主義とかが出てきたからだろうし、
そもそもヘーゲルの西洋中心主義の面とか、
そもそも私も日本だし、
今日の目からは全くいただけない。
中華思想の西洋版でしかない。
が、それとは別に、
仮想イデアの目的は神格だと私は思う。
神性、神らしさ、神がかった感じは、
その逆が、獣性、獣らしさ、獣じみた感じになる。
人は肉体は動物だが、
プラトンのいうイデア界、
僕のいう仮想イデア界に於いては、
仮の姿ではあるが、神格に近づく事ができる。
それは或る文明で、ある最高格の道徳を完成させきった理想の姿なわけである。
特にこの点で、自分の意見に一番近いなと感じたのは、
アリストテレスであった。
彼は『ニコマコス倫理学』の中で、
人は仮の姿ではあるにしても、
できるだけ神らしく暮らすがいいのだ、と説いた。
それは彼の説では、思索的な生活をさしていた。
当時の言い方なら観想と訳されるテオーリア。
現代ギリシア語でもテオーリアは残っているらしく、
詳しくはないにしても、
自分の手元のラテン・ギリシア語対訳辞書などだと、
「観光」という意味になっている。
当時の語感だと「見る事」をさしているらしい。
最も近い日本語なら「見物」だろう。
アリストテレスは眺める事が神の働きだといった。
アリストテレスの説では、
大まかに、
実践、つまり何か行動する事、
制作、何かを作る事、
で、観想、何かを見る事。
この3つに人間活動は大別される。
その中で最後の見物が最善だといっていた。
今日の「理論」と日本訳されている英語セオリーは、
元は、このアリストテレスによる見物を指す。
調度、天皇皇后の前で天覧試合をする。
このとき、
行動している人、雑務してる人達が実践。
何か演芸をしている人が、制作。
で、みる人である天皇皇后が観想の役割だ。
行動はこの試合の為の雑務だし、
演芸自体はその上で営まれる技だし、
それらの目的は天皇皇后を楽しませる事ってわけだ。
アリストテレスによれば、
今日でいう思想家とか口だけ無職の様、
単になににつけ眺めてるだけの理屈屋が最善の生き方である。
なぜなら行動する人達、制作する人達は全て、実は、
この受身で物事を眺める人の為に活動してるからだ。
今の経済でいえば最高次消費者な大資本家が主人という説である。
僕は、基本的にアリストテレスのこの説が正しいという風に感じている。
哲学用語なら幸福主義というもの。
したがって神格とは、最善の理論家になる。
もし言語障害があったとすれば、
言語以外の何かで感想を漏らすかもしれないし、
感想など一度も漏らさないかもしれない。
でもよい観客がいいのだ。
もう少し最近風の言い方に落とし込む。
メタ認知の階段があったとすれば、
それを最上位までのぼりつめる人。
これがいい人であり、また最善の生き方をしている人だ。
森羅万象あらゆる世界の物事に対し、
できるだけ広く深く知り尽くす人。
神格とはこのメタ認知の究極状態をさしている、濃度である。
「ではあなたはなぜ絵を描いてますか?」
これは次の様に思う。
実践とか制作を全くせずに生きるのは難しい。
散歩もするだろうし、料理もするだろう。
これらを他人に任せられればいいが、
どうしてもしなければならないなら、
少なくとも理論完成の手段というべきだろう。
哲学の為にやっている。
「あなたはなぜ旅行しましたか?」
「あなたはなぜツイートしましたか?」
これらも全く同じである。
理論完成の手段なのだ。行動や制作は。
それに役立つ範囲で行わねばならない。
それを超えたら過剰というべきだ。
全世界ぐるぐる回ろうと何も学ばない。
千個ツイートしたが全部誹謗中傷だとか。
結局こういう事だ。
個性の仮想イデアたる目的とは、
この理論完成に向け全知を目指す生き方だ。
まぁ一般的な言い方なら博覧強記。
もっというと世知に長けてる上に博学極まりない聖人でしかない人。
それが自分の見るところ、
この世で望める最も快い生のあり方だろうと思う。
俗な生の対極にある。
より厳密にいうと、
全知というより全徳めざす生き方だろうけど。
古典的用語法に基づき知識や技術が徳の一部だとすれば、
全知全能は全徳の一部でしかない。
したがって最善の生とは、全徳に限りなく近づいていく存在である。
僕はそうしようと志し随分経つが、
最近は自分に対立した人の自滅が多い。
もし自分が全徳に到達しないまでも、
少しより高徳を有している状態なら、
その意思に自分から反してくる人達って、
要はなんらかの悪徳で喧嘩うってくる可能性がある。
だから聖書が「自ら復讐するな、神がする」というよう、
徳に従う僕の目には、
悪人達が勝手に自滅していく様にみえるのだろう。
ここいらでこの論考を終えるが、
モギケン人間肉体論は、
この最後の部分に書いた説とも矛盾する。
だって仮想イデアと関係ないんだもの、肉体は。基本。
肉体が消えようが仮想イデアのほうは、印象として誰かに残るのだ。
その仮想イデアが立派であればあるほど、永遠に近く生き延びる。
徳の恩恵で。