2020年8月17日

知識の建築術としての哲学

なるほど学習量は思考の材料がふえる効果しかない。どれほど材料があろうと建築術を知らなければ宝の持ち腐れなばかりか、雨風すら防げない。だが僅かな材料からでも、立派な建築を作る事はできるだろう。寧ろ材料が豊富であればあるほど、混乱した構成になる場合すらある。哲学とはこの建築術の事だ。
 或る東大思想史の博士が、或る中卒の魚屋定年ボランティアより遥かに愚かで、悪人ですらあるとは、前者の建築術が酷く下手だという意味に他ならない。哲学的能力にとって、知識量は必要ではない。単に複雑な構造や荘厳な装飾を備えた大建造物を構想する人には、必要な材料がふえてしまうだけの話だ。

 私は確かに、全世界で最も偉大な、最も神々しい建築を構想する。それは全知全能全徳を目的にしているので、知識量は無限でなければならない。これは実現不可能な建てられざる建造物だが、できるだけその種の理想に近い建物を改廃しながら作り続けるのが、自分の哲学、知識の建築術の究極目的である。

 知識は程あれ体系化されない限り、哲学と呼べる建築にならないだろう。それは木片をただ地面に横たえても、その木片がどれだけ高級だろうと、驟雨がしのげないのと同じだ。体系化の質が高ければ、知識の水準が酷く低くとも、例えば木陰の手製ベンチ程度でも、多くの人々が心を休ませる憩いの場を作れる。

 もし、最高の哲学を完成させる事ができれば、少なくともこの世で救いをもたらしうる。それに近い感慨をいだかせるだけ知識を組み上げた思想体系の完成度が高いものが、過去我々の知っている世界宗教だ。
 どの哲学もやはり、有限の救済に留まるが、その遺構もまた、未来の建築術の礎になるだろう。