2020年8月17日

愚かさの型の収集について

自分より愚かな人から何かを学びとれる事は先ずない。あるとすればその人の愚かさの型だけだ。
 そしてそれは自分をより賢くするというより、想像もしない失敗例を蓄積するだけで、しかも遂になぜその愚者がその様な型を取っているのか分からないままである。愚かさの型を蓄積する無意味さ。

 我々は誰かが愚かだと認知する事が多い。我々は? いや少なくとも私は、その様な経験が人生の殆どを構成している。だから私が世間を見るとき、ほぼ愚かさの型を収集している。
 賢者がいるとしてもごく希に本の中で語られているに過ぎない。同時代に生きている賢者の類を私はみた事がない。

 私は社会学と呼ばれる分野が、この種の愚かさの型の収集に関わっていると思う。芸術一般や文芸はなんらかの技を通じた(技に投影された、比喩的な)心理の収集ともいえる。そこに賢さがあるとしても、ごく希だ。
 だがこの様に認知しているのが単に私だけなのか、人類一般がそうなのか私は知れない。

 少なくとも私が10代の頃ネットに接続し始めてから今に至るまで、なるだけ自分より賢い人々を探していたのに、今もそうしているのに、そこから収集された殆どは愚かさの型だった。雑情報。情報ノイズ。愚かさの型はだがこの雑情なだけでなく、社会学の主な対象である。この為我々は愚かさを無視できない。
 私が社会学を完全に極めるつもりでさえなければ、雑情の全てを無視できた筈だ。そしてそうしたいほど、雑情は一般に不愉快であり、統計的に量化して扱ったとしてもやはり不快さを伴う。調度サルを管理する様なもので、雑情分析にかかる手間は人生時間を圧迫し、最後まで完全に社会を理解できないだろう。

 私は『鬼滅の刃』を読めば読むほど苦痛になる。そこから得られる雑情は、自分には愚作でしかないその内容に夢中になっている連中の驚くべき幼稚さ、というより意味不明な程の軽薄さに過ぎないからだ。だが社会を分析するとはそれとなんの違いもない。愚者の行状を知る事。最も苦痛な仕事の一つだ。

 知性を正しく使えている人を、私は同時代にみた事がない。それは私が感心するほどの賢者が見当たらないという意味だが、恐らく過去のどの時代でも、ごく一部にしかその種の知性がいなかったのだろう。だから本の中にしか見られないのだ。賢者の記録は本、或いは文として残っているだけなのだから。

「自分を認めてくれない人の間に留まるな」と書いている人をみた。一理ありそうに見えてこれは不可能な課題だ。同時代に自分より愚かな人々しかいなければ、或る人が認められる事はないし、そもそも大幅に異なる集団間を渡り歩けるほど我々の言語知能は便利にできていない。第一言語に依存している。
 母語集団の最高知性はほぼ常に郷原は徳の賊と感じ続けて生涯を終えるだろうし、異言語圏にそれ以上の知性が見つかる保障もない。却って愚かさの型の収集量がふえるだけだけかもしれない。
 では認めてくれる人を探せとはなにをさしていっているのだ? 知己を気に病むなと孔子は言った。当時の碩学が。恐らく金儲け? 或いは需給の一致? 経済的市場原理に基づいて行動規則を作ろうというのか? もしそうだとすれば実に稚拙な忠告というべきだ。
 これも間違いなく愚かさの型なのだろう。そもそも例外がある、矛盾していると自分で気づかないのだろうか? 白虎隊は無駄死にか。俗物も名声を得る。

 確かに通俗的次元でいえば、或る人がその人になんらかの価値を認めている人と共にいたほうが功利的に見える。東京なら阿婆擦れに価値があるが、どんな美女も歌と踊りがうまいだけなら(程度あれ貞操観念があるなら)ソウルに行かなければならない。集団の価値基準が違うから求められる人材が違う例だ。愚かさの型、パターン収集は、私は小説など抽象的次元でも大分やった。だがそれでも無限に近いほど変異があるので(アイシュタインが冗談で言った通り)、結局社会を知り尽くす事はできない。ここでできるのは概括の把握と、個別事例の量的収集の2面作戦だ。抽象化と具体例集め。社会学の基本手法とは。

 心理学上こういわれている、落ち込んだ時に愚者をみると、自分以下がいると自尊心が補完され、安心する効果があると。それならツイッターを開けばおよそ常に安心していなければならない。現実には、自分はツイッターを開くほど絶望する。それは周りが賢すぎるからではなく、卑俗すぎて同類がいないのだ。
 我々が社会を学ぶのが創造的適応またはその一部である戦略的他者操作の為なら、愚かさの型を把握している度合いは、他者理解の部分にあたる。
 自分はこの他者理解の為にかなり大きな時間を使ってきた(高校の時などほぼそれのみに時間を使っていた)。社会こそ最も複雑な対象なのだからそれが正しい。

 多分、こういう事だろう。
「認められる為に働け」とは、他人本位の行動原理を正義と混同している人の言だった。この人は終ぞ偽善者たらざるを得ない。この人が善行するのは人にみせる為だし、この人が奉仕するのはカネ儲けの為だし、この人が評価するのは他人への奴隷的追従だけである。それだけではなく、他人本位の人は、遂に自分自身が何者かわからずに死ぬだろう。他人は他人の内心を究極で理解できないのだから、ある人を無限に操作するし、果てしなく利用する。他人本位の人は永久に他人から自立できない。百万人と雖も吾往かんと孟子が言った理由は他人本位の人には理解できない。