2020年8月9日

『鬼滅の刃』について

『鬼滅の刃』に夢中になっている子供は、出版社、集英社の金儲けの為に踊らされており、もっと立派で面白い過去の作品を知らないだけである。子供騙しという言葉がこれほどふさわしい作品は、他に『ワンピース』くらいだろう。
 鬼滅はネヅ子が口枷から救済された場面以外、筋の上で必要がない物語だ。その他の部分は間延びさせられていて、特に物語を含まない単なる戦闘シーンの繰り返しという意味で、『ドラゴンボール』以前、『北斗の拳』辺りからはじまったのだろう、いつものジャンプのパターンを踏襲しているのだろう。アリストテレス『詩学』によれば、筋が物語の本質であれば、この鬼滅の刃は全体が間延びしているだけで特段みるべき筋もない。鬼に家族を殺され、鬼にされた妹を救い、鬼の親玉を倒す、そして昔からよくある夢オチ。絵も(ジャンプ史上、鳥山明と比べられるのが酷なのだろうが)決して上手ではない。その種のかなりの駄作、というよりおおよそ無内容な作品に夢中になっている人々は、子供ならいざ知らず、他に古典という参照先が無数にある大人の間であれば、単に自分の文学的素養のなさを暴露しているだけに終わるだろう。それを恥じる所もないのでそうなのだろうが。
 特にネヅ子を性差的にか弱き女子、守られるべき妹として被虐的存在に描いている所が陳腐で気にいらない。勿論、日本(大正期)版の救世主的騎士道物語、その典型構図といえるのだろうが。ネヅ子が救済され口枷をはずされてからも知恵遅れの様に描いている点も、性差に対する偏見を強化するだけに思う。
 子供、特に少年がこの話に夢中になるのは、単にチャンバラ欲求を満たしてくれるからだ。イケニエの妹を守り、正義、勇気、友情など少年の心に感染しやすい徳を教える説話の元で(それらはよいことだろうが)、辛い修行を重ねつつ、強い敵を次々倒していくという、分かり易い成長物語も子供心に訴える。

『ドラゴンボール』の基本はやはりその種の少年の成長物語だが、最終的には主人公の死後の世界、子や孫の世代まで描かれる。単にスケールの壮大さが違うだけでなく、筋書きそのものが遥かに複雑で、やはり救世主の冒険活劇ではあるが、微妙なニュアンスで上品下品さまざまなユーモアが入り混じる。それだけでなく、登場人物ら全てにはっきりした個性の差があり、性差も多様に描かれている。甚だ気の強い女性や弱虫の男がいるくらいではなく、各々の性格的差が多声的に、物語の細かな筋書きに重大な影響を与え続ける。擬人化動物や異星人など幻想的存在も、機械や人造人間などSF的存在も出てくる。
(現実に異星人が幻想的存在とは限らないが、というか科学的に実在するだろうが、ここではそもそも主人公が現生人類とそっくりな人型の異星人なのも含めそうした)
 自分は大人になってからも『ドラゴンボール』全体を読み直したが、ここ最近読んだ『鬼滅の刃』では到底太刀打ちできない漫画だと思う。それだけ実力、あるいは文学的内容の差がある。世界全体でありうる群像劇うち一体どの部分を抽出し、作劇法の元で人に見せるか。駄作に時を費やすのは全くの無駄だ。