たとえそれが間違いだとしても、間違いうる、可謬性の元で何事かを考えようとする人は、全く誰かの意見をうのみにして死ぬだけの機械的存在より、多くの場合はなんらかの意味で有意義だ。その思慮が反証の一部、ここでは真理の正しさへの反対例になるからだし、無謬性を信じて謬見を伝えるより試験的だ。
最近私は次の言葉を疑っている。「哲学」、この言葉は、自分に対してもだが、或る重要な字義を伴っていて、自分は確かに哲学する者ではあるにしても、それを名乗ろうとすると或る重要な欠格を感じる。それは哲学者となるのは自分には荷が重いのではないか? という知的謙遜であり、畏れでもある。だがこの言葉は、「思想」より、西洋の伝統に属する名義で、特に自然科学が一般に哲学の対象から分離されていると、何と俄かな大学関係者、特に理科専攻の間でさえ勘違いされる様になってから、本来の総合的名義ではないか、一般人の間では小難しくて役に立たない事くらいの俗語になっているからだろう。
しかし長らく自分の知性を謙遜し続けてもなお、自分が目的としているのは「総合的知性」であり(故に自分は、興味の根底で唯のなんらかの分野の科学者になりたいと願った事はない。それら部分知は結局手段だった)、その頂点にある道徳性なのだから、やはり哲学の徒だと自分をみなすしかなくなる。
他人から認められるとか、社会の中に地位を得るとか、あるいは金を儲ける。これらの事柄は、自分にはかなり昔からどうでもいい事だった。恐らく今後も究極でそうであり続ける筈だろう。これらは世俗性で、いわば自分の死後意味をなくす事である。名声を目的にしている学者は全員が愚か者と私は感じる。自分にとって目的なのは、よく生きる事。単にしあわせに生きる、という事ではない。これは私の親友が高校1年生の頃私に朝の通学路で私の質問に答えた目的観だったが、諸思想家らの中で幸福の定義が異なる以上、最高の目的ではない。よく生きる事の上に幸福があるのではないのだ、その要素に過ぎない。
よく生きるという事は、レオナルドが「立派に費やされた一日は長い」と書いたのと同じ中身だ。プラトンもよく生きるという事、最高善を定義しようと格闘していたが、結局彼にとって正義がそれだった。哲人王による理想国。孔子も結局は同じ徳治の王道を考えていたが、彼らにとって最高善は政治的だった。
全く同じく、自分にとって最高善が政治的といえようか? 現時点の自分には、自分自身が最高権力を握る以外の方法で、理想が実現しうると想像できない。だが権力闘争は私の心に堪えるし、衆愚は私の死後、全く別の体制を作るだけだろう。よく生きるとは、この種の構造を自らに利用する事ではないのか? 人が世界に適応するとは、そこで自己犠牲を最大の利己心(良心の満足)として、自らに都合よく周囲を操作する事に他ならない。正義の国は、自分の方が他人より利他的な体制を作りうるというある種の判断に基づいているが、ここで行使される権力では、結局、哲人王の死後の世界に責任を取れない。
したがって死後の世界を含んで正義を実現しようとすれば、究極の所、ある実現できる理想を人々に長らく伝え続ける方が合理的なのである。同時代でその理想に近い体制を作っても、死後にその理想が失われれば、急速に別の体制にきりかわるだけだろう。別の統治者が悪辣ならより堕落もするだろう。
よく生きる際に、わけても最善なのは、理想を人々に伝える保存の形式、その戦略的正しさなのである。これが、私にとっては哲学であり、その表現形式である所の純粋美術である。行政人はある理想を実現する為の公僕にすぎず、より重要なのはこの理想を絶えず最上の姿に保ち続ける磨き上げの作業である。
そもそも思想は形を持たない唯のイデアだ。イデアの類をなんらかの形に留め置かねば、それはすぐにでも消え去って永久に復活しない。形を通じて人々が感得し続ける為に、整備された方法論が美術の本体である。
文章もまたこの美術的側面を持っているので著書という姿をとる。イデアを固定化する為だ。プラトンや孔子は一体なにを迷っていたのだろう? 彼らは重要な思想を持っていたのに、そしてそれを十分に伝えていた筈なのに、政治権力上の闘争に関わったり離れたりしていた。それらはしもべの仕事といってもいいのだから、重要な理想を説いていればいい。実現できる理想であれば、それが最善なのに。
この世では、直接手を下さない方が巧くいく物事がある。それが私の見る限りある種の政治であったりある種の商売であったりする。それらは少なくとも、理想と現実のすり合わせの作業だが、煩瑣な上におよそ全ての部分が雑事に該当する。そうであれば、雑事に向いた半分は俗な人々が行うべきである。