黒瀬淫行告発事件は、これも自分的にはかなりの衝撃だった三浦春馬自殺の直後にあったのだが、自分の人生観に影響を与えた。その事についてこれから書きたい。
先ず自分はこれまで勘違いしていた。どう勘違いしていたかというと、世の中の人間を人格的に高く見積もりすぎていた。
人は一般に主観に照らして物事を見る。それで自分は、他人が自分と同等以上に賢明であろうと考えてしまっていた(知的謙虚さなのだろう、多分)。だが事実はその正反対だった。
世人は一般に俗物であって、世俗的快楽を求め権力闘争し、利益を貪っている生命体だったのだ。まるで猿かなにかの様に。それで自分は、最初に社会集団と本格的に接触する事になったそもそもの最初、特に幼稚園の時点から呆れていたのだが、嫌々ながら親に強制され、少なくとも専門、また今いる大学までの進学過程を経た。はっきりいって無益有害であったと思う。なぜならそこにいたのは一人の例外もなく俗物だったからだ。
猿とほとんど変わらない(ゲノム塩基配列ならチンパンジーと1.2%しかかわらない)生命体が周りに溢れていたのだからそれはこの上なく不快な経験だった。特に日本人一般のうち、東京で見た連中の俗悪さは語り尽くせないほど酷かった。そして自分は俗物連中を避けることにした。当然の選択肢だった。
だが、黒瀬淫行告発事件の某文章を読み、その後2日たった今の段階で、自分には或る気づきが生まれた。それは次の様なものだ。
まず自分は世の俗物を、進んで(いわば洋行後の志士状態の漱石みたいに)政略で打ち倒すしかなかったのである。彼らは無限増長するばかりで未来永劫悪行を続けるからだ。彼らは偽物と俗物のゲス社会を作り上げている。その中で、調度浮舟状態にされた或る女史が出た。その人の告発のお陰で自分が、いかにその悪の権化の類、卑しい同年代の連中を進んで打ち倒して行かなかったか、いわばみすみす犠牲を放置していたに等しいと悟った。それは100%現実政治によっている。真の学術的業績は通時的かつ普遍的なものなので、自分はそちらに集中していた。だがこれだけでは十分でなかった。同時代人一般は下賎な仲間と群れて悪業三昧しているのだが、彼らは単に俗物で、現世利益を求めて他人を踏み躙っているだけだったのだ。
自分は彼らが無能なだけだと勘違いしていた。自分より遥かに知性が劣る猿のごとき人々が、東京につどってなにか下らない金儲けだの勲章ごっこをしていたとしても、確かに完全にどうでもいい。と、自分は悟り済ましていたのだが、これは同時代人のうち、少しはましな部類がいけにえになるのを単に見捨てているに等しかったのである。同時代の文人は、単純にほぼ例外なく二流以下の俗物であるから(これは一流以上の文士がうまれればその意識から、どの時代でもそう見える事になる)、彼らを打ち負かすには純粋無雑な政略があるだけだった。川端が太宰を、大江が春樹をおしころしていた様に。同時代学術業界も完全に政争だけがある。黒瀬氏は、その同時代的地位を存分に利用し、性搾取の類をしてきていたのだろう。だが十分に賢明な女性が逆襲する。これで上記の政争構造が暴かれた。実態は政界と何も変わらない。政争の手段が違うだけだ。同時代美術界では作品を種にした箔付け馬乗りがあるだけである。その意味では極めて卑俗だ。
究極では、天皇家がこの政争で最大権力を維持している。だがそれも所詮は大衆洗脳含め政争に過ぎない。彼らを政治で倒すか、国内宗教的にのりこえれば、神道や天皇勢力は減少消滅し、もっとましな世の中に変えていく事ができる。ここにあるのは純粋な政略だ。それを軽視していたので悪人が栄えたのだ。
俗物達を打ち破るには、彼らの猿程度の知能に応じた根回しの類が必要である。それで彼らの王者は最大の俗物になる。
だが猿程度の知能なら欺く事も容易であろう。自分はこの点で勝利を確信している。はじめは全体の半ばなりとアリストテレスはいうが、この場合、しくみに気づけば勝ったも同然だ。
ミルがいうよう、文明人が野蛮人に敗れる事はあってはならない。放伐の類で暗君が新政府を樹立する様な場面は、全体で見れば一時的な例外であろう。明治政府が脆くも崩れ去ったのは薩長藩閥による侵略暴政など長くもつ筈もないから。全く同じ事が、悪徳に満ちた都内の俗人らにもあてはまる。
高貴なる使命、より高徳にして高尚なる判断のつく賢明なる人間は、遠慮なく俗物どもの醜い利権を踏み躙るがよい。自分はその為にもはや妥協しない事を決めた。同時代的に極悪人の類が東京圏であれだけ羽振りを利かせていた、そしてその余波で数多の愚民が欺かれていたのを知ったのだから。