2020年8月1日

世人は一般に酷く愚かなのかもしれない

さっき気づいたのだが、自民党や安倍首相のコロナ対策があれだけ無為無策でお間抜けなのは、そしてそれを安倍サンがんばれとかいって応援してる人達がいるのは、単に彼らが正真正銘の馬鹿だからと思う。自由派には「何でこの人達そんな悪さが好きなんだろう?」って、善意の不足にみえてるのだけども。
 これで大体謎が解けた。
 今まで「この人達、なんでこんな下品だったり幼稚だったりする漫画アニメに夢中でたかってんだろう?」とか、「なんで唯の姦淫小説なんてわが国の傑作みたいにいってるんだろう?」とか、諸々この国酷いなと感じていた。彼らが自分より馬鹿だったからと考えると納得できる。
 生まれか育ちかは分からないけど、本物の馬鹿がいた場合、その個体が何かを善意でやっていたとして、余りの無能さに見当違いな方向に努力し、大迷惑大公害をまきちらすなんていかにもありそうな話だ。それが東京人一般なのだ。だから虚栄心に耽り原発公害なんておしつけて田舎差別なんてしているのだ。

 この気づきは自分の人生ではコペルニクス的転回に近いのかもしれない。仏陀の悟りみたいなもので、異次元の認識である。薄々勘づいてはいたものの、自分の知的謙遜バイアスのせいで、気づかないふりをしてしまっていた。
「まさか自分以外の国民一般が、本当に心底馬鹿なんてあるものか」
 自分よりなんらかの知識をもっている人は見かけた事があるにしても、よく考えると、自分は未だ人類で自分より遥かに賢いと感じる人を一度もみていない。これも謙遜バイアスで自分に嘘だといいきかせていた。そんな筈はないだろう、お前は何かを見逃しているに違いないぞと。それで勉強しまくっていた。
 ニーチェが神を否定した時、パスカルの賭けとは全く違った意味で、西洋人の日常会話でいう神、つまり全知全能を信じなくなったのだ。
 自分は回天神社で自分と同姓同名の墓をみて、天皇が殺人カルト教祖だと気づいた時先ず一度、この種の神話をのりこえた。次に今さっき人類一般への狂信を否定した。
 「人の心は根底にあって良いものであり、ゆえに人を信じるのは善であり、善の広がりによって人は次第に賢くなっているのでやがて文明はよりよい世界を作りうる」
この信念、ヒューマニズムが間違っている。人に期待しすぎているからだ。もし他人が想像を超えて愚かなら彼らが悪心でも不思議はない。

 自由派の知的水準からみると、安倍晋三という人物は正真正銘の極悪人にしか見えない。自分にもそう見える。しかし、これは彼が我々の想像を超えて愚かだからだと仮定すると、或る意味ではヒトラーや裕仁こと昭和天皇と同じ存在感をもってみえてくる。愚かな故に権力亡者になり悪政をしてしまうのだ。
 なぜ漫画アニメにあれだけ東京人だの京都人だの、その他の外人だのが夢中なのか? これも全く疑問でしかなく、彼らは立派な芸術を知らない為だろう、と自分は勘違いしていた。単純に彼らが驚くほど愚かだからだとすると全てのパズルが解けてしまう。馬鹿だからより高尚なる物が理解できないだけだ。
(馬鹿とはサンスクリット語moha(無知の意)の漢訳音莫迦を「馬を指して鹿と為す」の故事にかけ当て字した日本語。今日愚かさの形容に使う)

 尾畠春夫東浩紀。子夏なら前者を学者というかもしれない。
子夏曰「賢賢易色、事父母能竭其力、事君能致其身、與朋友交、言而有信、雖曰未学、吾必謂之矣」――『論語』學而第一、七
しかし世人が学者と思うのは後者である。なぜなら世人が一般に学の目的に無知だからなのである。
 日本人一般が驚くほど無知、恐るべき愚かさだからこそ、彼らは王権神授説に由来した政教一致をいまだに奉じているし、一党支配を消極的正義と勘違いしている。
 そして彼らは普通以上の教育を受けてもそうなのだ。という事は、凡そ生まれながら愚かだったのだとみなしていいだろう。
 啓蒙によって愚かな人が賢くなる? まずありえないだろう。教育でもろくに変わらなかった人達なのだから。それらは焼け石に水みたいなものだった。
 だから三浦春馬氏の炎上ツイートみたく、恐らく日本人一般の余りの卑劣さに呆れつつも、改悛に期待するヒューマニストは傷つき倒れていってしまう。

 愚かな人が賢くなるといった事は先ずありえない。教育だか独学だかで論理回路が鍛えられIQが数十変動するとかまず全く関係がない(結果をみればいいし、同一集団内の偏差にすぎない)。そもそも知能にはIQではかりきれない要素が多すぎる。だからこういえる、賢い人に更なる賢さしか期待できないと。
 釈迦ことガウタマ・シッダールタは、恐らく生まれながら当時のインドで傑出した賢さだっただろう。更に出家後の遍歴で思索に耽り、我々の知る原始仏教をまとめあげた。彼自身の残した言葉に近いと考えられる『ダンマパダ』等のどこにも、大衆の誰もが救われるなどという大乗仏教的意見は出てこない。釈迦が語ったのは、人には愚かな者も賢い者もおり、そのうち愚者を避け賢者に従えという事だった。ここでいう賢さは道徳のよさであり、いいかえれば業を知っている度合いである。物理も究極では因果法則なのだから、倫理法則を包含した概念を業とすると、カントと法則の捉え方は同じだといえるだろう。
 物理世界を自然とし、そこに倫理世界を上書きしてある場を社会とする。自然も社会も、業でできている。倫理は物理も使う分だけ、より複雑な業になっている(例えば武器は物理法則で動くが、それを正しく使うのは倫理である)。
 賢者とはこの物理と倫理を両方ともより正しく深く認知できる人を指す。
 世間の人々が恐ろしいほど愚かであるとは、彼らが物理・倫理のいづれかを正しく認知できていない事を意味している。それで恐ろしく間違って世界を捉えたり、頻繁に自他へ害を為すことさえある。
 結局、賢愚(広義で道徳認知たる善悪を含む)は質だが、高質な賢さは一般に、希にしかみられないのだ。
 賢いと(ダニクル効果や、未知への認知限界の広さから)知的謙虚さをもっている可能性が高い。だがこれも過度ならある種の愚かさだ。自分は、どうやらそれだったのではないかと思われる節がある。自分も認知限界がどうやら広い為(ビッグ5開放性最大値)、10代ころ大海前のニュートンに共感していた。
 10代後半の自分は、まず全知に至らないと全徳がいかなる物かも分かりえないと考えた。それで全知に至る方法を探り始めるのだが、結局、自由教養を無限に拡張するだけに終わる。無論、到底時間が足りない。15才頃から今まで勉強していた記憶しかないが、未知の分量の方が多いのが明らかゆえ先は長い。
 格物致知みたく、一旦豁然として貫通し、いわば知性の踊り場みたいな場所にいづれ出る筈だと考えていたのが朱子だが(僕が16だか17才の頃描いた『Process(プロセス)』とかいう100号の絵みたいに)、そんな場ないというのが今の自分が思う事だ。永遠に求道し続け、ある点で倒れるしかない。
Processプロセス
2001年
画布に油彩
162 × 130.3 cm
福島県立磐城高等学校蔵

 今にして思うとこの絵、自分の心の中なんだろうと思う。磐高の中の階段に託しては居るけど、心象風景として、求道的な無限空間みたいなのをとかく探求的に進み続けるしかない。それがいわば自由教養界であり、裏を返せば認知の世界であり、我々の意識である。全知になれずに死ぬとしても進むしかない。
 他方で、生まれつき一定より愚かな人は、その種の心象風景を持っていないのではないかと思われた。僕はなんとか全知に至りたかったので、彼らが海外旅行だ~とか、卒業旅行だ~とか合コンだ~就職結婚だ~とかいってたんだろうけど全く関知せず、眼中に置いていなかった。だって目的が全く違うのだ。

 自分はそもそもこの世の存在意義が知りたかった。或いは自分自身の生の意味。のちに勉強して知る事になる単なる動物的な細胞分裂の延長以外の、倫理的な意味を。いわば全徳に至らないと完全に生の意味を悟る事はないだろう。よって全徳の前提として先ず全知が必要だった。しかも是非とも。
 しかし、ダヴィンチも似た様な事を書いていたと思うが、世人は似た臓腑をもって生まれてはいても魂が全く違うのではないかと。僕の目には人類全般が猿みたいにみえたのだけれども、それは彼らが酷く愚かだったからだと考えると納得できる。人間性に照らし何かの勘違いかとずっと疑っていたのだが。