今ものすごいことに悟った。
今までなんか東京文化に違和感というか根っからの気持ち悪さ、合わなさと近づきたくなさを感じてきた根本原因が分かった。それは東京って京阪神みたいに商業第一で拝金銭ゲバなのに、自分はその真逆の、君子道徳や武士道の世界が心の故郷だからだ。小人は利にさとり君子は義にさとる。
自分は金儲けが一番嫌いである。この世で。だから某東京系・横浜系インフルエンサーとか、ヒルズ族系とかも同時代にいたけど、全く全員片時も近づきたくなかった。今後も絶対に近づかない。だって汚い感じがする。僕が一番嫌うタイプの人間性なのだ、彼らって。
三浦春馬が自殺したので彼の一生を辿ろうとして色々調べた。それらは『春馬物語』にまとめた。彼が魂を引き裂かれていた世界観も、自分が感じる所では、茨城側の武士道世界と、東京側の銭ゲバ世界の物凄い落差だと思う。そして僕はどっちも体験したが茨城のが遥かに麗しい。
どう違うか。東京側って道徳とか皆無なのだ、本気で。彼らにあるのは低俗な金儲けだけである。これはそこで暮らした事がある外部者の目には一目瞭然だが、内部で暮らしてる人達は泥沼になずんでしまっていて、汚れの中で大満足しているのだ。豚が糞まみれなのに喜んでブヒブヒ言ってるみたいな感じで。
だが茨城側は、水戸の侍達の物語が沢山根っこに残っていて、彼らの英雄譚が多かれ少なかれ伝わってるから、風紀が道徳世界みたいになっている。勧善懲悪を前提に作られているというか、少なくともそれへ向かおうとする何かがある。勿論悪人もいるが、東京と違うのは道徳が金権に優越する世界観がある。
自分が感じたのは京都の世界観はもっと陰湿な謀略を前提にしたもので、東京みたいな金権至上主義をもっとひねくれさせた様なものだった。大阪は人情味とかいいつつ中身は単なる銭ゲバだ。東京はそれに肩書きによる空威張り権力ゲームまでくっついてくるから一層たち悪い。
これらの世界は俗界だ。
僕が世界で一番尊敬している自治体は水戸市だ。ここの先人達も現代人達も本当に心から偉い。これは間違いない。沢山その証拠は見た。数え切れない。崇敬に値する先人を数多もっている自治体というのは幸福に値する。畏れ多いといいかえてもいい。僕は水戸市民ではない。北茨城市民だがそう思っている。
現実に水戸市でくらしてたら色々俗人達もみて、偉人が一部なんだと思うかもしれないが、でもその一部の偉人達の道徳性が傑出してるので(義烈・慶喜公はじめ水戸の徳川家、回天神社の尊皇志士ら、水戸第二連隊、飛虎将軍等々)、しかも集中してる節があるんだからそれだけ道徳文化的に優れているのだ。
彼らは東京の人達とはまるで違う。それはどう違うかというと魂が違う。東京人はもっと低俗な仲間だったと思う。僕は一時期、都民になろうとしてたが結局、志す道が違うと判断して、三浦春馬と異なり自分の判断で地元に帰った。それは正しかった。だって下衆の間で高貴な道徳なんざ絶対通じないのだ。
立派な考えに基づいて、勇気ある偉大な行動を、自己犠牲を省みずとることができる正義の人々などそう多くはない。だがそういう人達が傑出して集まっている箇所というのがあり、それが水戸市である。僕が行ける限り全国方々みた限り、できるだけ全世界に見聞広めた限り、一つの間違いない真理だ。
自分は、これまで、東京的なる物をできるだけ学習した。というか表も裏も知り尽くしたに等しい。それでも、そこには何も重要な点はなかったと思う。もし商業の面に限っていうなら、銭ゲバ的大企業の体質みたいなのとか、甚だしい驕りとか、商業道徳として全く参考にならないからまねてはいけない。
それなら、自分はなぜ今まで無理して、東京的なる物、すなわち小人的なものに合わせようとしていたのか。
道徳的な茨城の風土(正義は勝つ、勝たねばならない)と、不埒な東京の風土(匿名卑怯者が集団で銭ゲバ)。三浦春馬の自殺が紛れない異文化間の摩擦による悲劇だったと確認し、はたと悟った。
自分は自分より劣った人、劣った風土にあわせようとしていたのである。小人ごときに。町人文化ごときに、高々商人たちに。
自分は飽くまで道徳的に生きてよかったのである。釈迦の様に、孔子の様に、数多の先人となる高貴なる武士たちの様に。なぜそれに気づかなかったのか。媒体に洗脳されていた。
聖人君子は現存する。自分である。10代後半の頃できるだけ善行だけをし悪行は一切しない様にしようと決意し、できるだけ毎日わずかでも悪事と思われる行動はなくす、どうしてもしなければならなくてもやらなくてよくなるまで最大限遅らせる、善行と思われたら即座に実行すると徳を積みに積んだ。
その最終的な段階で、自分は商業という物が自分には全然合わない世界だと学んだ。資本主義の古典から現代経済・経営学から具体的な商売の実践まで単なるバイト、起業もどきから経営、投資まで一通りやり尽くしたが、釈迦や孔子と同じく自分にとって望ましい世界ではないと分かった。それは小人の世界である。
自分が世界史に革命を起こすなら、それはこの一点についてだ。自分は現代の聖人であり、資本主義を超えた人だ。なぜなら自分は商業をしくみの根底、利益追求だの付加価値だの搾取だのの全面から憎悪しているのであり、全く商いが不道徳、悪業だと認める者だ。そういう人はこの時代を終わらせるに違いない。
自分がこの時代に為すべきなのは、バフェット式に金満慈善家ぶる事ではない。その真逆だ。なるだけ道徳的な利他行動を復活させる事、人助けの世界を深い宗教的次元で再現させる事だ。武士道の根底にある人倫を現代化する事といいかえてもいい。
市場原理はそれに値しない。冷酷な東京をみればいい。
もし自分の県が、あるいは市が、東京と違って安全基地になりうるなら、そこに道徳性が程あれ実現しうるからに他ならない。それは飽くまで自分自身が道徳的に行動し、一生を善く生きる事によっている。孔子がいった、君子がいればそこが理想国だと。自分が聖なる人になりうるかが公共の全てだったのだ。