オザケンがracismを人種差別と意訳せず、広義な人種主義って新たに逐語訳すべきといいだし、それに或る翻訳者が字義を意訳してある方が正しい翻訳とつっこんでいる。
この話題を自分なりに或る程度辿って思うに、明治語再考の一つかなと思った。
明治語は大抵、当時級の漢学の素養がある程度あった訳者、具体的には西周と福沢諭吉らが、既存の漢字字義内で似た概念あったら、それを転用している場面が多い。しかし、自分の見る限りオザケンにそれ(国学含む東洋哲学の素養)は殆どない様な感じがする。小学生の頃からファンの一人ではあるが。
この場合、人種差別という定訳より、新たな逐語訳のが広義になるよってだけだろう。僕もよくdemocracyを逐語訳して民衆政治と、明治語の民主主義と使い分けている。
でも明治語には味わい深い和製漢語が沢山ある。Economy(ギリシア語oiko-nomos、家政)を、経世済民の転用で「経済」としたとかね。
僕は漢学の素養がより深くあったといえるだろう西周訳語の方が、なんともいえない軽薄さがある福沢訳語より一般に好きかもしれん。僕が福沢訳語で一番よくなかったと思うのはcompete(共探)を競争と訳した事。役人にこの訳語何とかならんのといわれても意図的におしきった(『福翁自伝』)。
僕が英語で海外の人達と会話した場合、racismは既に人種差別という意味で使う事が常態になっていたので、英語圏で単なる「人種主義」って広義で使うのは困難だと思う。あなたはレイシズムね、レイシストよっていったら殆ど人間性の否定くらいの意味なんだから。「人種差別」のが現実に即してると思う。
敢えて逐語訳の「人種主義(または人種思想)」という新語を日本語の語彙に加える効果はあると思う。だから英語圏のracismと分裂した、なんらかの表現を行う為にオザケンの新和製漢語の造語論にも一理はある。
今度は逆輸出で人種主義をracismと訳すと意味が通らないという現象が起きるだろうけど。
中国語(中文)だと、种族主义(種族主義)と訳されている。この場合、明治語を直接採用しなかったのだろう。それならオザケンは素直に種族主義にすればいいと思うわけだが。中国訳語版で、日本の常用漢字に入ってるんだから。
要は翻訳素人に近い状態の作詞家・小説家が軽率にSNSで煽りすぎである。
この件もだが、前から自分は中文や台湾語その他の漢字圏での頻用漢語と、日本語のそれを、特別の意味がないかぎりできるだけ一致させた方がいいと思ってるわけだ。同じ漢語でいいあらわせるのに一々文通しづらくする意味は一切ないと思う。漢字圏の学者が協働で、共通の常用漢字表を作るべきかと思う。
いわゆる簡体字に関しては、最低でも常用漢字の範囲で対応表を作ればいい。そしたら漢字圏の人達は、語順さえ覚えれば、基本的意思疎通なら漢文で、ある程度できる様になると思う。そもそも昔から漢字圏の学者ってそうしていた。漢文と漢詩が立派に書けるのが東洋圏の知識人の最低必要条件だったので。
尤も、おたよりをさす和語当て字「手紙」と中文「信」みたいに、各漢語圏で意味が分裂してしまっている場合もある。これらは個別で対処しかない。
しかし明治以後の翻訳語は、各訳者の条件がほぼ同じなので、各漢字圏の合意がとれれば、次第に共通の文字にまとまっていけばいいんじゃないかと思う。