2020年7月9日

サブカル俗物と東京文化人の欧米崇拝

自分が安心して生きられる場所、その為の感情的な世界を作る事。少なくとも日本人一般は全くそういう場を自分に提供しなかったし、殆ど天敵の様な連中である。下卑てゲスにしか見えない下賎な文物に必死でたかって大金を貢いでいた彼らは、自分へは悪意で犯罪を重ね続けた。憎悪や怨嗟を超えた連中。自分は或る善意で、その種の現実、つまり母国民が本物の極悪人とサル未満の馬鹿で埋まっているという現実から目をなんとか背けているので、自集団に完全に絶望していたとしても、いわゆる恨みになっていないと思い込んでいるが、もしその種の気をそらすことができない人がいれば、現実に耐えられない。

 認知力が恐ろしく低い人間、恐らくIQ以外にも何か原因があるだろうが、ツイッターではよく見かける。いわゆる右翼と称する連中。その人達は、自分がみるに、学校での落ちこぼれの様な人達だ。最初から色々と頭が悪いので認知が歪んだまま年を取り、自集団に搾取されながらもなぜかそこに頼る。
 もしかしたらこういう事なのかもしれない、頭が生まれつき悪い人達が大勢いて、そして自分が観察できる範囲には自分が尊敬に値するほど賢いもしくは尊い同時代人は誰もおらず、それで自分は自集団に完全に呆れているだけである。実際にありうる事だ。反ダニクル的に自分が謙虚すぎるのかもしれない。

 ヒトラーはドイツ民族を本心では恨んでいたのではないだろうか? 彼はその無意識を、自集団を狂わせる方向の権勢欲に昇華した。もし彼が画家としてドイツ人らから、早くに養われていれば、あの様な国の破滅を招く事もなかったろうと推測される。ユダヤを彼が恨んだのは、金をもっていたからだろう。
 恐らく、ヒトラーは勘違いしていたのだ。大抵の画家志望者は皆同じ宿命に耐えて死んだのに、彼はそれを避けようとした。そしてそれを画業の挫折と呼ぶのだ。
 自分も、数多の挫折者らを見た。彼らは数多の言い訳を用意し、生活の為と称して仕事を自分からやめた。世人は金儲けを強要してくるものだ。
 商業作家になる者もいる。隆も奈良もその部類だ。彼らは或るカネになる様式を獲得してからはその枠組みの中で一生を過ごす。それはカップヌードルが売れたから、工場で量産している会社と何か違いがある訳ではない。工房で肖像画を量産していた中世のギルドみたいなものだ。今日では誰も名を知らない。

 自分は高校の時から村上春樹を観察対象にしていた。柄谷が定本のどこかの対談だか鼎談だったかで言っていたが、『ノルウェイの森』から俗受けに舵をきった云々。自分もその点はその通りだろうと思う。でも最初から、大衆文化志向はあったのだ、そうでなければ『風の歌を聴け』で性表現を露骨にしない。春樹当人は職業作家になった事を後悔していないだろうし、それは飲み屋の主人としての生活よりましだ、或いはもっとカネを蓄え楽して暮らしたいというあきんど勘定で必然に、売れる本を書く必要に迫られてだ。だが、その初期の判断が、彼を今の様な半通俗作家へとしたてていった。純粋文学ではない。

 漫画やアニメ単体が、そこまで邪悪なるものかといえば、単に低IQの人達が夢中になっている幼稚で卑俗な黄表紙的産物というくらいで、自分も実際には全く歯牙にかけていないし、現実に純粋美術以上の理論的、美学的次元に達している物をみたことがない。耐え難いのはそれを褒めているスノッブ達だ。
 この際の俗物達の理屈については別の所で少々書いたのでここでは省略する。簡単にいうと二重基準で、超平面理論が欧米にうけた(と一部の国内エセ知識人、東京文化人が思い込んでいる)から、浮世絵ウケで見下していた北斎を手のひら返し褒めちぎる式の、日本によくある海外崇拝が裏返ったものだ。片手では芸能界だの政界だの経済界だの報道界だののあらゆるガラパゴス化を非難しながら、美術界のうちサブカル(漫画アニメゲーム)のそれだけやたらと誉めちぎる老害の頭の中身とは、隆の追随者というだけですっかり彼に洗脳されているのである。だが隆が唯の私的な嘘つきだという事は既に書いた。
 現実のサブカルは全てが敗戦国の自慰などではないし、例えば『ブラックジャック』から『だがしかし』まで、自分が読んだり見たりした様々な産物には色々なバリエーションがあって、まとめて自虐ネタにできる代物でもない。庶民向けの大衆商業芸術。絵画的には微妙な質の、具象絵本。それだけの話だ。そもそも日本の伝統絵画、日本画で平面性が特徴というのも彼の嘘だったのである。レオナルド式の遠近法が知られていなかったので相対的にそうみえてしまいがちにすぎず、雪舟・雪村あるいは等伯・春草であれ奥行きの表現で既に、空気遠近法の類を使っていたではないか? 無知な外人を騙す商売人。
 サブカル俗物の醜さは、彼らが反知性主義を間接的にもりあげているのに、同時に自分の愚行をまねた民衆にやれやれ、こいつら本物の下人だぜというポーズを取る点だ。どちらも東大論法的な位置取りセオリーでしかなく、要はご都合主義の二流、三流の批評である。東京文化人なるものの質の低さ!