「民度」という言葉。石原慎太郎が頻用していた。
福沢諭吉の「文明」(又は「文明度」)もだが、これらの言葉の決定的な間違いは、ある集団全体が、一定の目的に向かって前後あれ一様に進歩していくという妄想だ。進歩史観が悪い方面に出ている言葉で、中華思想や自文化中心主義に陥ると一層悪い。
特に植民地獲得、いいかえれば帝国的な侵略の正当化に、福沢『文明論之概略』から流れ出た、民衆平均の知識・道徳を度数化した概念「文明」のその民度という言葉は使われていたのだろう。無論今日見返すとこれは基本的に一部の国々にいた、侵略主義者の傲慢でしかない。『脱亜論』も福沢らしい論考だ。
麻生太郎が副総理としてコロナ禍被害度の、表面的な死者・患者の少なさ理由づけで、自慢気味に使った民度も、ほぼ福沢の概念を延伸させており、しかも石原と類似文脈で単なるうぬぼれた自民族・自文化中心主義でしかない。例えば他の東アジア諸国の方が日本よりずっと被害度が少ないからだ。
現実の世界は、例えば跳躍都市をもつ新興国の経済成長率と、現先進国の凋落とを比較する限り、また、亡びた多数政治国をみる限り一様な進歩を遂げるものでは全くない。しかも経済を除く文化多様性の面でみれば尚更である。例えば世界中が英語を母語として使う様になる日は、恐らく永遠にこないだろう。
全く相似の事、つまり世界は単に部分的な模倣と変容を含みつつ総じて多様化していくものなので一線的進歩史観がなりたたないという真相は、国内の各地でもあてはまる。気風か虚栄心のため、京都や東京の人達が思い込みがちな自分達がなんらかの上位者という妄想は、他県からみれば反面教師に過ぎない。
東京都民一般は、世界中が大人含め漫画・アニメなどの自文化に染まる物だと本気で信じているが、現実は全くそうならないだろう。一部の「オタク」にとっての趣味に過ぎないそれらは、しかも国内でも真の市民権を得ているとは言いがたい。変態性欲や淫行を描く同人誌に75万人もたかるのは超特殊集団だ。
例えば芸妓が日常に外を歩いているのが当たり前だと思っている人々が、日本国内の超少数派なのも明らかであり、現京都市民が誇っている自文化は、観光旅行者らの好奇の的である。酌や舞踊をする娼婦が顔を真っ白に塗りたくり、中国の呉から輸入した服を着て歩きづらそうに闊歩するのは変わった風習だ。
これらは集団の風習・風俗(後者を訓で読めば「かぜのならわし」で、都民全般がそれで日用化している性売買業界、という意味も、本来の風俗がmoralの訳語であったかぎり大変変わった、或いは退廃的な価値観である)に関してだが、政治・経済、学問・芸術など、ほぼあらゆる面についても類似といえる。
数学上の記号、或いは物理法則など、基本的科学の概念にはある程度の普遍性がある様にみえるが、潮流や定義が変わった時それらが全く違うものにおきかえられたり、いいかえられたり、或いは廃れたりする事もある。これらは仮の構築物で、仮説の束でしかない。科学の普遍性も、一種の虚構である。
英国は近代以後に傲慢さの為、自国の制度や規範的な考え方から遠い対象を「野蛮」とか「未開」とかみなしていた。この風儀は今もBBCワールドなどでまざまざと観察できる。構造主義、もしくは多文化主義的な文化人類学などから導かれるかぎり、これらは人文学の中で批判される対象となった旧い態度だ。
斯くして、単なる学問の内部でも、自然学的なものであれ社会学的なものであれ、いづれに於いても、その通時的な普遍性は自明に保障されているわけではない。単に各地の人類が、当人達の必要や興味に応じ、或る知識、道徳を発達させていくだけでそれらは、唯一つの目的を共通してもつわけではないのだ。