2020年7月10日

現代日本で自由人はいかに生きるべきか

金儲けの話ばかりしている人達。いわゆる商売人達、この人達、当人らは物凄く楽しくて夢中で、その外には一切気づかないで、または目を塞ぎ一生を過ごし、死ぬ。
 アリストテレスは『ニコマコス倫理学』などでそういう人達を忙事に一生を費やす者として、人生の目的を果たしていないと語っていた。
 忙事(文字通りのbusiness)は、当人の理性を他人に取られている、または自分から明け渡しているとも考えられる。彼らが利益を得る為に何かをしているとは、デリダが商取引を「返礼の省略」と称する観点からいえば、なんらかの奉仕(service)の対価に進んで気を取られる思考だといっていいだろう。
 自分は親切でこれを教えようと東浩紀がライブ配信で嫌々ながらサインしてるとき「批評しろ」と説教したら、東はやおら発狂しだしYouTubeですら即ブロしてきたことがある(笑)。そんなに防御力0に近いキャラ、ドラクエ3でいえばあそび人か無装備僧侶くらいの感じで、忙事なぞしてる暇ないと思うが。
 古代ギリシア自由市民の是と、現代の自称他称・忙事男(ビジネスマン)を一緒にしていいの? という事なら、僕は実質同じ物だろうと思う。資本主義の奴隷階級っていわゆる労働者であって、それを合理化するしくみが、自由主義系経済学の全体だといえるだろう。マル経や社会主義系がこれに対置される。
 毎日忙しそうにしてる人達は、たとえ億万長者だろうが心貧しいと、アリストテレスはじめ古代ギリシアの自由人らは考えていた。そういう貴族意識って大体どこの国にも一定以上にあった。それで大金持ちが自由人とは限らない。忙殺されてる時点で、その人はなんらかの点で無能だというのが自分の見方だ。

 数年以上真剣に資本主義、自由主義系の経済・経営学、金融工学を実践含めてやりまくってみてわかったのは、この点、アリストテレスの頃から何も変わっていないという事だ。他分野でもよくある話だが「時代遅れになる原則は原則ではない」(バフェット)。過度の忙事は人の自由を奪うものでしかない。
 アリストテレスは彼の言い方なら観想、特に世の真相を眺めることを最も神に近い至高の活動としていたので、彼のポジショントークだった点を除いても、彼は各自の個性(卓越性)に応じた天職がある、とも同書(息子のニコマコスに因んで名づけられた、アリストテレスによる講義録)で語っていた。
 忙事が天職の人、天性の商人がいた場合、アリストテレスによるとその人は、最高の人ではない事になる。当時でいえば奴隷階級にそういう人がいたかもしれない。近代の自然権だと各自に生得的差別、又は貴賎がない前提になっているので、商人でもいいじゃん、となるが、アリストテレス説では否定される。

 資本主義的社会で、自由度の高さと、金銭的対価を払えば他人に奉仕してもらえる権利を天秤にかけ、後者に重点を置くと忙事に割く負担がふえるわけだが、ここに知恵がある者とそうでない者の違いが生じる。賢ければより合理的に金銭を得るので、さほど忙殺されないまま自由を得るに十分な奉仕を得る。
 アリストテレスは、『政治学』(1259a)に書き残されている様、タレスが投機で儲けた逸話をその様な例として挙げていた。要は知恵の友愛に比べ、金銭を得る仕事はより単純なので、忙事に一生を費やすのはそれが天職の(より理性に劣った)人でなければ不合理というわけだ。
 孔子やプラトンの場合、最高徳の政治家を理想的人格としていた。彼らが同時代的に置かれた、彼らの主観からは腐った政界への反定立として。
 しかしアリストテレスはそうではない。最高の人格は純粋に哲学的な人だった。いわゆる幸福主義。
 イエスの理想は神官、ガウタマのそれは悟った乞食だった。

 現在でも影響力をもっているムハンムドは、世俗的な殉教戦士を理想視していたと思う。それは彼の宗教が当時の中東で政治的要素を多分に含んでいたからなのだろう。
 いづれにしても、アリストテレス説では忙事、商人のくらしは最高の目的ではない。だが現代日本人の殆どはその逆、拝金主義的である。

 ネット上で、悪しき風紀の第一原因(匿名掲示板2ch創設者)となっているひろゆきだけでなく、子供さえ匿名の隠れ蓑の裏で、陰険に目立つ者を誹謗して回っている。そういう現代日本は、忙事を通じ天皇に貢納する事が、奴隷なり神道国家信者たる義務だと憲法で洗脳されている。それで互いに卑しめあう。
 共和政の国々では、象徴天皇や事実上それを維持する目的での労働(勤労)義務、納税義務といったカルト宗教的記述がその最高法規に一様にみられるわけではない。これらは天皇一味が飛鳥時代から徐々に国を乗っ取った因果に他ならない。民衆は愚民化政策で自己奴隷化してしまい、幼稚な漫画に夢中だ。
 唯でさえ奴隷根性の熱狂的信者らなので、その敬虔な信徒生活で、政教一致(祭政一致)の枠組みを超えた最高善について思考をめぐらせるなど以ての外、ひたすら天皇の命令に殉じ死ぬ事を神格化する、保守派の理想の埒外にある自由など、土台から憎悪対象になっている。これが日本人商人一般の実像だ。
 なぜ日本人一般が斯くも弱者、特に貧者に冷酷か?(例えば「世界一見知らぬ人を助けない国民性」とWorld Giving Index 10th editionで示されている)
 その答えは彼らが拝金奴隷として天皇への納税目的に生きているからだ。この狂信者としての教義は、他の思考へ極度に不寛容で、全くの無思慮である。
 資本主義や経済的な自由(放任)主義は、彼ら日本人一般の中では天皇制を維持・強化する目的に限定され摂り込まれた。こうして現代日本では独特の忙事、すなわちひととして自由度を極力下げながら互いに天皇への貢納教義をおしつけあう儀式だけが、至上の人間活動で、他の要素は日々排除されていく。

 ではその種の狂った民衆の間で、自由人(ここでは一般教養以上を持っているので、自ら考え、過度に忙殺されず生きられる人々)はどう生きるべきか?
 私見ではここでもアリストテレス的態度が最善だろう。労働奴隷らは自分が洗脳された存在だと気づくほど利口ではないので、啓蒙にも限度がある。
 遠からずカルト国家は倒れる。より理性的な国々、つまり世俗国家の方が、より合理的な制度を作れる以上、日本国政府は遠からず、皇室を公税による扶養の外にはじき出すしかなくなるだろう。政府がその国庫に寄生する対皇室の政争に敗れれば、ますます世界史の反面教師として晒されるだけであろう。
 しかし皇室打倒後でも、未だ忙殺される労働者らは自らを管理する人々がいると気づかない。そこで初めて、日本人商人らは一体、マルクスの分析に学んだ他国が、社民的な福祉国家、そして一国二制度でなにを試み、多かれ少なかれ成功してきたか徐々に気づきだすだろう。彼らはまだ外国に無知なままだ。