ユーチューブで勝手に大学と名乗ってる系統の人達、今のところだが唯のひとりもまともな学者みたことない。普通に大学のオープンコースアップされてる場合あるが、その講義と比べても明らかに質が低いだろうに、学校教育法がなぜ勝手に大学なのっちゃダメと決めたか、無法者チューバーは理解してない。
勿論、いわゆる教授だからって言ってることが正しいとも限らないし、東大で講義してる博士も、ほんとつまんないなって内容もあるが、勝手に大学名乗るチューバーは全体として物凄く知識の質が低い。というより、漫画版とか一般書読んでテレビ風解説する人達である。大学というべき程度じゃないと思う。
特に、僕が最初から嫌いな或る芸人。この人、人間性がどうしようもなく悪い。某ラジオでブチギレ喧嘩時から完全に嫌いになった。詳細は以前どこかに書いたから省く。けど、こないだツイッターでみたけど、慶○なのにお笑い芸人なところに惹かれます~とか、死ぬほど頭が悪そうな女がいて、びっくりした。
僕は福沢諭吉の研究者だった。10代後半から20代前半くらいまで真剣にやっていた。
そこからすると、まさかそこまであの小さな長屋ではじまった義塾が堕落するとは想像もつかなかった。実学主義が是だった塾。シグナリング虚勢ネタなだけでがっかりなのに、金儲け三流講義の芸人を排出する結果とは。
福沢は塾生に、『学問のすすめ』でも語られてるが、もっと塾に留まって院まで行けといっていた。一方で見込みがない生徒にはさっさと実業に行けといったこともあった。でも、どうみても学術的な質の低い、謎の俗受け動画で金儲けしてほしいとは思ってなかった様に思う。それで真に啓蒙といえるのか。
最近、そこの文学部の教授にも問題児がいる。曰く、一番弟子だったといってもいい石河幹明に、『脱亜論』など「時事新報」上に掲載された福沢論文の全責任を着せる暴論である。完全に犠牲、イケニエ、スケープゴートに他ならない。福沢は他のところで幾らでも人種差別的記述を残しているのに。
僕だけではないと思うのだが、この芸人の講義は本当につまんない。それは単純に語り口が巧くない、そもそも喜劇にもなってない、笑える点がない、というかユーモアが欠如しているというだけじゃなくて、知識自体が物凄く浅いから一見して聴いてわかるのである。前からいうよう高校の用語集のがましだ。
じゃあなぜそんなのが大人気なのか? それだけ、日本の文明度、平均的民度って想像を超え低いのだろう。詐欺師に一発で騙される。だからこそ、国政は安倍晋三に、都政は小池百合子に完全に牛耳られているのだろう。
それだけ知的民度が下がってしまったので、サブカル芸人輩も嬉々として金儲かる。
こうともいえるだろう。
他にもろくでもない同時代人達を自分は幾人もみてきたが、学歴順位制みたいなものを大上段に振りかぶって恥じる気配がない某なんとか大学学長補佐という人。このひともそうなんだが、要は地頭が悪いのに肩書きだけロンダリングできたので差別を合理的と考えているのだ。
ゆとり世代なるものの知性なり教養なりの質の低さ、新自由主義ご時勢下でサブカル漬けの結果って、自分はたまたま彼らと年代が近かったので個々人も総体もつぶさに観察できたのだが、本当に驚くばかりの愚かしさ、卑しさで、人間性を完全に絶望させるには十分すぎるものだった。日本は絶対落ちぶれる。
全国内人口の2%くらいの人が、そういう質の恐ろしく低い偽大学で夢中になってイイネ連打したり、大金を貢いでいる。他方で、ちゃんとした学者は博士課程のあと極貧自殺してしまう。なるほど醜い光景だ。だがそんな低民度国に住んでいると自覚する為にだけ、ユーチューブ大学なる紛い物群は役に立つ。
真面目な話、文科省か国会は、このユーチューブで勝手に大学なのってる三流未満の偽教授達って、できるだけ早く罰則設けないと、大抵の愚民が学術的に明らかに間違いまくってるまとめブログ的なもの、視聴回数狙いの分かり易い嘘に洗脳される結果になると気づくべきではないか? 既に手遅れかもだが。
繰り返すが自分は、純粋に学術的な物の見方として、どちらかといえばアカデミズムに批判的な方だ。だから教授の地位だの学位だのに一切権威を認めていない。真理、事実、或いは技能、徳性などはそれらで保証されないから当然といえばそうだが、特に学術史全体でアカデミーは反動的役割にすぎなかった。
大抵、潮流(パラダイム)論で言われた所と等しくて、或るアカデミア(大学・学界)での通説を革新する知識なり、概念、作品なりが出現すると、教授、博士らは総じてそれを全否定してしまう。再学習できる正誤問題のプロである彼らにとって、通常の過程で正誤不明な異次元の話は理解できないからだ。
それにもかかわらず、なおユーチューブ偽大学の類は、革新的学術成果より遥かにたちの悪いものだと思わざるを得ない。実は、並の大学と異なる角度から、知識などの伝播に独特の発展がみられる可能性があったので(例えば落語的芸として)深慮で以て観察していたのだが、結果は低品質動画の量産だった。
当人は完全に商売としてやっている様にみえるので、元々、学術面の精確性だの研究目的ではないのだろうし、某心術師に至っては言い訳の様「これはエンタメです」と但し書きまでしていた。それなら科学の体裁とるのは、正に共知(conscience)の欠如だろう。
アカデミズム側はそんな連中、端から無視してんだろうけど。
一体誰が最初にこの類の偽大学の流れを作ったか。さっきから直接明示せずに指摘してる人が目立つけれども、それ以前からホ○エモン大学というサロンが作られてた様な気もする。この人、どれ程の知的水準かといえば動画内で、漫画のが読み易いから学術書買うやつは飾りたいだけとか本気でいっていた。
もし一度でもニュートン『原理』であれユークリッド『原論』であれ、そこまで遡らずとも高々漱石くらいでも触れたことすらあれば、到底いえた話ではない。学術書の殆どは当然だが、高が小説でも漫画とは基本、別の表現分野である。もし漫画にできるなら要約でジョイス『フィネガンズウェイク』描けと。
以下仮イニシャルにするが、このHという人物は、ガチ系の無教養かねた根っからの商人、昨今の日本型成金像の象徴みたいなもんだろうが、思想史一度でも辿った事があったら釈迦が乞食やってたなんてすぐ分かる。基本的に金儲けと何の関係もない、哲学とか。世界の根源を問うところから始まっている。
じゃあなぜ、偉そうに上から目線で、いつもの侍らせたお決まり女と同調し、そのユーチューブとやらで「学術書は売れないからゴミ」「漫画しか売れないから」「皆お飾りで小難しい本買ってるだけ」説、知識人って可哀想みたいに本気で恥知らずな説をいえてしまうのか。まともに学問せずに東大合格したから。
こういう風にも感じる。
もし歴代中国のあの偉大な思想家達――具体的には史家、諸子百家や漢詩人らから、政経分離論の習近平含む近現代の革命思想家らまで――が、Hレベルの唯の漫画オタだったならば、科挙ならぬ東大受験一直線でブイブイいえた筈がないではないか? どこまで堕落すれば気が済む。
またこうともいえる。
明治政府の馬鹿どもが、元々貧しい西日本の果ての農村からでてくるや、イギリス製エンフィールド銃だのでドン! ドン! と忠実朴訥な東北人威し、というか殺し、まあまあ、大人しくしなさいなと殿上風な事を仰る慶喜公が、皇家にお城譲るのに乗じ、つけあがって帝大作った。
その帝大で教えたのは当時の西洋の知識で、今日まで日本政府が狂信するノーベル賞神話が生まれた。曰く輸入学府の権威って向こうの評価に依存する。明らかな間違いである。でもそんなのにすら気づいていない。Hの漫画のが売れるから偉い説って。二重三重に愚かすぎてもはや笑いすら出てこない質。
タレスが投機により一季で大儲けした逸話(アリストテレス『政治学』1259a)。哲学は実利と直接関係ないからといって、学者にとって実利が究極目的ではない証明にされている。東洋の『老子』でいう無為の為、『荘子』でいう無用の用だが、幾ら米国かぶれになって実用主義に毒されたからといって、今更、経済価値が全てなんて価値倫理学も呆れるほどだ。
ついでに書くが、次の様な説をモギケンが言っていた。ボイシーで最近言ってたが、昔のクオリア日記も同趣旨が出てくる、曰く永遠の名声は幻想だと。で、これは恐らく小林秀雄の引用だが、実のある人が必ずしも有名になるものではないと。
僕は特に後者について浅薄な謬見だと思う。以下理由を書く。
有名さといっても2つのものがある。1、不易流行でいう流行。2、不易。例えばリヒターがノートでいうマカルトは流行、モンドリアンは不易の画家だったが、同時代的には逆の評価に限りなく近かった。当時の有名さとは通俗セレブなだけで、必ずしも名下に虚士なき普遍的名声と一致するとは限らない。
僕は絵が専攻だ。その周囲の研究は全て、実際にはこの為の掘り抜きの手段みたいなもので、美術史でいうとダヴィンチは僕と結構似た性格の人だったと思う。で、ダヴィンチレベルまでいって偶然消えるって事はない。これは僕としてはかなりの精度で断定できると思っている。本物は不易の段階なのだ。
科学で分かり易くいうと、ニュートンがそれにあたる。流率法はライプニッツ微積分記号インデグラルの合理性に負け廃れたものの、彼の力学がなかったら近代科学のかなりの部分は不全になってしまうので、当然のよう彼の成果も巨人の肩になる。独創カウントの美術と少し違うのは、発見の先後がある点。
で、モギケンは別の文明での名声と比較している。これは極論だといえよう。比較不可能な2つ(または複数個)を同列に並べる誤謬は、論理的錯誤としてよくある。名声の概念自体が違うかもしれないし、そもそも名声の意味が違うかもしれない(インカや江戸時代の日本で義士が最大の名声を有するとか)。
という事は、我々の文明での名声は、その文明にとっての価値づけに依存した概念である。特に不易の名誉は、同時代を超えよい影響を与える者にとって、感謝の度合いとして与えられるといっていいだろう。この文明自体が変容し別の価値観に移行する事もあるが、それらを包含して、不易の名誉がある訳だ。
すなわちこういう事。
不易の名声は存在し、それはその時点までの世界史を振り返って、人類かその末裔がこの人の仕業が一番皆の為になったと認める人物にとってのものなのだ。それを超えて汎名声を得られるとすれば人的価値を超えた(幻想か想像外の)神々のものであり、人にとってのものではない。
(参考の為に書くとダヴィンチの何が偉かったかというと、主に2つある。1、諸遠近法の基礎づけ。2、聖像作りから肖像画への転換点。当時としてダヴィンチは相当の名声を得ていたと思うが、金が余りなかったのは手記からもほぼ間違いない。しかし死後の名声に比べてそれは余りに過小評価だったろう)
これらを前提に後者(偉人が必ずしも同時代・後世に名声得られない事もある説)について反駁すると、同時代的流行は別項目でそれ単体での評価だ。売名が全てともいえるので、例えば画家ならウォーホルとかピカソ、商人ならジョブスみたいなのがその典型だが、話題づくりや炎上で株が上がるに過ぎない。
一方、後世での名声は凡そ完全に、不易の段階による冷厳な評価軸である。孔子は「君子は死後、名を知られないのを憂う」(衛霊公第十五20)、同時に「君子は(生前に)無名なのを憂うべきではない」ともいっていた(学而第一16、憲問第十四32、衛霊公第十五19と3箇所も反復される、重要部と思う)。
孔子が謂わんとしたのは、当時の俗流は、時と場をこえた王道より大したものではない、との価値づけだろう。
だから偉業を成し遂げた人の名声は、死後ひとりでに高まり続けると考えなければならない。実際、別の時代、別の地域でもこの原則はあてはまる。逆に現地では当たり前と思われていたりする。
『新約聖書』でイエスは「預言者は故郷では尊ばれない」という(ヨハネ4:44)。裏返せば孔子がいう「郷原は徳の賊なり」(『論語』陽貨第十七13)となり、要は故郷だと先ずその人を幼児から知ってて、あら何々ちゃん帰ってきたのね、みたく子供扱いされ、かつ彼らの偉業も現地で珍しくない傾向にある。
こうともいえる。偉業を成し遂げた人の日常を知ってると、それがゆっくりと徐々に進行していたりするのでさも当たり前の風景にみえる。カントがケーニヒスベルグで毎日決まった時間に散歩してたのをみてた町の人は、彼の紙がどんだけ思想史上決定的かなんて別に聞いても「え、そっすか」と思ったろう。
ガウタマはインドの外に彼の思想を、死後ずっと経ってから弟子らに広められて、仏陀(サンスクリット語「悟った人」)として金ぴか偶像作られまくるなんて到底想像していなかったに違いない。同時代人でほぼ似た経路で死んだマハーヴィーラの教えはまるで輸出されなかったのも、同時代は知らなかった。
インド現地では、別にコーサラ国シャカ族だろうとマガダ国ヴァイシャリー市だろうと、クシャトリヤ(王士階級)の家出乞食が並列的にいたのだから多かれ少なかれ似た様にみえたろうし、一方は漢訳通じ普遍的になり、一方は偶然かわずかな違い(苦行志向や不殺生の徹底など)で地域宗教になった。
初期の漢訳通じ、なぜガウタマの教えの方がマハーヴィーラのそれより広く伝えられたか。これを全て偶然に帰せるかだが、ここでいう通り、長期でみたら不易の深度と考えられることになる。中道説の方が苦行説・極端な不殺生説より道徳的よさを穿っていたと考えられるからこそ、巨視的に仏教が広まった。
短期的には流行がある。例えば『源氏物語』は偉いとか、ウェイリー訳通じ日本文学の代表という文芸批評の立場が少なくとも国内で支配的だが、僕が直接みるに、明らかに『平家物語』の方が優れた中世文学といえると思う。前者の偽りの名声はやがてオリエンタリズムの反復だとばれ、後者に軍配が挙がる。
インドの現地では、今もジャイナ教と仏教は微妙な勢力の拮抗状態、または場合によってはジャイナ教の方が元気なくらいだろうし、そもそも、それらは現実を相変わらず支配するヒンズー教やそれ以外の宗教より圧倒的に重要と思われるわけではない。外人が思うよりガウタマは現地で尊ばれなかったのだ。
モギケンの(多分小林引用とおぼわしき部分含む)説にもどる。曰く永遠の名声は幻想、偉業に名声が伴うとは限らない。
前述したよう、僕の意見ではある文明で想定される永遠の名声は、通時的な(時を越えた)よさにあてはまる不易な(かわらない)もので現実に在り得、真の偉業は死後名声が高まる。
で、そこから見返すと、ユーチューブ偽大学とか、まじで死後名声が高まるどころか逆に暗黒史の典型例だろうと思う。というより同時代でも殆どみられなくなって、ちゃんとした大学の公開講義がおもになると思う。池上なんとかの解説みたいなもので信頼置けない部分多すぎるし、下らないとしかいえない。
まだ野蛮だったネットには、なんか勝手に大学なのってた馬鹿が、いい加減な嘘混じりまきちらしてたらしいよ、とこうなる。これだけ情報の安売り競争が激しいのに、そうならない訳がないのだ。
逆にオンラインサロンは新興宗教と同じしくみで、信者をいかに騙せるかみたいなヤバイ勝負になっている。
究極のところ、大学も宗教施設である。
昔、日本の大学って藩校できる前は本当に寺が殆どだった。足利学校みたいなのもまれにあったが、基本的に日本仏教教える場所(のちそれが展開して寺子屋、私塾)と、鈴屋とか適塾みたいな医師の見習い的なのだった、のだろう。
科学も科学主義という宗教だ。
例のプラトンの私塾アカデメイア(現地名が今では学園、学界の名義になっている事からも一起源)から来ている西洋だって、ほぼ神学部が支配していた時期が長い。物理が威張りだしたのなんて、ニュートンが密かに光学実験だの集中しすぎ、ゆで卵ならぬゆで懐中時計芸やってた伝説の余波に他ならない。
なので、オンラインサロンだからって見下げられた話か、ともいえるが、公認大学と少々違う点なんて政府が講義時間制限で与える(幾ら長い授業受けたろうが馬鹿は馬鹿なので卒業生の品質保証になる筈がない)、質の怪しい学位制くらいだろ、ともいえるが、それはオンラインサロンについても同じである。
が、これは確かにいえることだが、公認大学の場合、少なくとも複数学生が所属し、多少あれ開かれた議論の渦中な点がある。パワハラセクハラがどうとかも、オンラインサロンだとハイ不信心者BANで終わりだけれども、流石に公認大だと色んな方面から遵法義務あって、全部が私的係争で終わる訳ではない。
百年単位だと、どの大学もオンラインサロンとほぼ似たしくみ、正確には放送大学形式と通学形式の雑種から、最終的にはほぼ全面オンライン化に変わっていくとはいえようが(安価なAIによる講義・学習ソフトとか、実験すらVRやARあるので経済効率からもそうなる)、今の所、閉鎖的場よりはましだと思う。
そして最大の違い。補助金で大学だと直接役立たない虚学できる。それが最後の牙城なのに、反知性主義の安倍晋三が公立唯一の美質まで金儲けでダメにしようとしているが、そんなら私費で研究所でも作れってだけの話。カネになるならその方が余程いい。野口英世だってロックフェラーがパトロンだろうに。
冒頭にもどると、義塾って元々、「寄付でできている学校」って意味。だから某僕の父親の大学も、国内私大で一番金持ってるものの、本当は補助金とか拒否しなければならないし、福沢の生前はそうしていた。そこの卒業生は世間で金儲けたらちゃんと母校に寄付しろよと。糞動画あげててうざいのはあるが。
イギリス人の作った世界大学ランクへの劣等感。そんなんどうでもいいことではあるのだが、一応、そこでいう上位って殆ど私大である。日本だけなぜ私大が論文引用主義などで弱いか。ケチどもが寄付しねーからだといわざるをえない。逆に愛校心はぐくめてないともいえる。いい学生より芸能人とるから。
本当にいい学校ってのは、まぁそんなの本当に希ではあるが、肩書きで威張れるからとか、そういう事では全くない。少々体系的には竹内洋を読んで欲しいが、つまりは「栄華の巷を低く見て」式の高邁な理想を吹き込む点が違うのだ。勿論宗教でしかないけど、真理探求の本気さって一種の風紀なのである。
ここに、卓球少女あり。或いは美しき女優あり。或いは京都出身の芥川賞女流作家あり。で、ここに、ドイナカ者でわでは真理が知りたいでがす、とかいってる鼻たれあり、わだは日本のゴッホになるだ、といってる目を輝かす無能なる青年あり。ぜったい前者とるでしょ早○。そんなだからドンべなのである。
僕は知っている。ニュートンって、何度も出すが、この人が最も典型的な大学人といっていいからしょうがないんだけれども、まじで貧乏農家の息子で考え事ばっかしやがるからつかえねーってなって神学部の大学いれられた。そこではバイト学生的なのであって、いわゆるパブリックスクール上がりじゃない。
ケンブリッジ某所で食事の片付けとか、バイトやる代わりに学費が安くなるだったか免除の立場である。まぁ日本でいやあ完全に苦学生である。しかし裕福な貴族の子弟ってのが大勢入ってる所で、名門から名門に来たぜエっつって、まじで周り見下しながら勉強ちっともしないやつらがメインなのだ。
が。ニュートンは子供のころ体格小さいだかで素で虐められていたわけであるが、一度ブチギレてからは勉強家になる事でいじめ回避していた。その癖で、大学でもずーっと一人下宿で勉強しまくる。周りは皆卒業していって偉そうにしていたが、ニュートンはペスト、今のコロナ疫病みたいなので実家帰った。
そこでお庭に転がってていわゆる林檎おち引力思いついた伝説だが、これも懐中時計ゆで卵事件と同じでまことしやかにいわれてるけど、まあその時期にノート書いてたのまでは確かではあろうけど万有引力思いついた。だけど誰にも言ってない。なんと、そのまま中年すぎだったかくらいまでいってないのだ。
ま、今でいえばさながら貧乏バイトでもてない陰キャが実家ニート期に、人類史上でも特筆すべき知的成果を挙げていたのだけれども、その後、また大学もどって普通に一番大人しい勉強家だからずーっと学校に居残って先生に認められ(オタ気質すぎ外で使い物にならない)、いわゆる教授になれたが人気0。
生徒からしたら、まじでニュートン講義なんて分かる筈がない。試しに『自然哲学の数学的原理』(『プリンキピア』)読んでみたらいい。僕は英語のやつもってるけど、あれ原典ラテン語だからね。唯でさえ日本でいやあ漢文で書いてある様なものなのにオタ言語で書きすぎてて超異常に小難しいのだ。
しかしこれが、ニュートンが『(前略)原理』書いたのは、頼まれたからだから、友達に。中年になってから。要は分かり易く他人の為に書こうとしてあれである。
ま、なんで僕がこんなニュートンを頻出させるかというと、僕個人が人類全体でも相当好きなタイプだからである。非常に生真面目の極み。
僕の近所の大学にも天才がいた。P2P作った人。金子勇っての。あの人、まじで頭の異常に固い京都府警・裁判官が抹殺したせいで悲劇で終わったが、生きてたら確実に何か重要な国際賞貰っていたに違いない。正にニュートン的なタイプである。天才を殺す罪って物凄く大だと思う。放置すりゃいいのだ。
ガチオタが、本気でヤバイ知的成果を挙げるものだ。それはニュートンが最たるものだけれども、もっと前からそうだった。風呂あがってエウレカエウレカ叫んで、侵略してきた兵士に殺される直前も数式床に描いてた奴。あいつもヤバイ。アルキメデス。ビルゲイツもウィンドウズ書いて寝てなかったらしい。
アインシュタインが最初に、大学でシカトされてて専門卒みたいなもんなのに(成績表みたらわかる通り、興味ないこと一切やらないって意味では自由教養人の対極)、一公務員がトンデモ論文を査読誌に送った時、あとでマックス・プランク以外だれも反応しなかったわけで、アインシュタインはましな方だ。
これら大学者らの実例であるが、どいつもこいつも欠落しかない。いわゆる日本でいうエリート大学生的ななにか(これ自体、なにかのきっかけでごく最近出てきた女チンピラ的妄想なのが明白)は、少女マンガ幻想である。一流学者ってそういうのまずいない。超絶変人中でも最たるオタクしか極められない。
思うんだが、「暇な大学生」とかいう神奈川辺りの某大学生のものとまとめサイトにほぼ同定されてたが、いかにも『東京大学物語』的『ノルウェイの森』的淫行アカがあったんだけれども、大体、村上春樹と江川達也が諸悪の根源ではないかと僕は推測している。実に。国内大を風紀面で動物園化した連中だ。
東京自体が江戸の昔から淫風があるのは間違いない。杉田玄白がほぼ性病患者と書き残してるくらいだ。同じ事は紫式部以来の京都にもいえるけど。そこに私大量産する側(つまり明治人)もとんでもない馬鹿だが、現代に至ると最早民族全体が馬鹿になってしまって、ガチめの学問なんて寸分もやってない。
元々、学問、勉強ってのはカッコイイものでもないし、優秀さの印でもない。その全く逆である。世間で使い物にならないやつが、もっといえばダメ人間が出家して僧門に入る為のものだ。学部で学士とったら一流企業に就職だ~とか、米国化もどきなんだろうけど、心得違い甚だしい。脱世間が大学人なのだ。
だからこそ、僕はこのユーチューブ偽大学に、物凄い不愉快さを感じている。なぜならこいつは大学人でもないし、いわゆる学者ですらないし、ほんとの話芸人としても中途半端で全然笑えない。そういう中途半端なやつが嫌われるってのはよくある話で、ガチ系からみるとスノッブにしかみえないのである。
まぁ学問を出家と同列に置くのはどうかといわれもするかもしれない。日本或いは西洋の伝統なら、仏教と神学が中心だったから確かにそうではあるんだが、そして僧門入るやつが優秀じゃないってのは逆に通俗能力(金儲け、繁殖、権力闘争など)を中心にしてるからに過ぎないでしょともいえるがその通り。学術的優秀さとは、いわゆる政経的優秀さとは、全然違うものなのである。だから学者や芸術家が、政治や経済の面では全くの無能でも、何にも驚く事ない。だってそれらで必要な能力ってまるきり違うのである。一般知能指数高い人がなんでもできるなんてことはない。高IQの絵が立派な事にしたら美術史変。
今度は、大学社会ってものができてしまい、脱世間めざす人達がその中で宗教結社みたく位階制とる。それが今の大学です。だから僕は近づかない、てか深入りしない。いわばガウタマだって当時からぞろぞろいた苦行系修行者らの部外者のままだった。ちょっと出入りし外から眺めてた方が岡目八目だった。
産業化された学問、大学社会。これらは、僕にいわせるとシュンペーターに洗脳された可哀想な異端である。でもあまねくは、僕みたいに考えてる大学人の方が、本来の教養水準からいくと一定以上の位置にいると思う。まぁ足きりみたいなもんだ。産業主義は所詮、流行でしかない。だから視聴回数とか無駄。