いまだに某氏が「美術業界」を一括りし、そこでは女性差別が存在していた、という観点を、ほぼ絶対的前提と考えている。
それは日本の美術業界人全体が女性作家を差別してんじゃなく単にほぼ全員食えない職業に、結婚の逃げ道がある女性一般が進んで残る条件にないからにすぎないのが業界内部の実態で、主観的には美大芸大など女性が過半数占める女中心社会なので逆とすらいえるのだが、某展覧会の開催前の当時、エゴサで返信してきた彼に僕は何度も説明したが、彼は寸分も理解示さなかった。
しかも、性差と性別をわざと誤認させる展覧会コンセプトなのは明らかだったので(性差・ジェンダーは男らしさ、女らしさなどの社会的性差のことだが、参加作家の生物的男女比を1:1にすることと何の関係もない)、なんで混同してるのですか? って普通に返信で聞いたら、彼にブロックされた。
つまりこういうこと。
社会学的な性差(ジェンダー)論と、性別に関する性差別の議論を、彼は見分けてなかったか、わざと混同させて論争を呼びつつあった。それは社会学的にも、芸術学的にもNGな誤導だろうし、学芸員がなぜ指摘しなかったのかも全くの謎。
しかも日本の美術業界の性別比には差別以外の要因があるのが社会学的事実といえように、それをわざと、国内美術業界人一般なり全体が、さもネトウヨレベルで女性差別なり蔑視しているからに相違ない、と彼は決めつけてしまったのだ。事実は寧ろ女だらけだし、総じて男が立場狭いほどなんだけれども。
当時も僕は説明した。僕の姉も美大だわ、僕も15才からずっと美術業界のあちこちをウロウロしていたが、一度たりとも女性差別ってみたことがなかった。というより僕が師事しに自分からいったのは女性だったし、そこでも、普通に女性のが数が多かった様な気がしたし、だーれも差別主義者っていなかった。
20代前半の僕は、全集買って研究してた福沢諭吉にまだ少しかぶれていたのだと思うが、親友の友人にいた在日コリアンのアーティストに、名前をインド人みたくナム~ってふざけて絡もうとしたら、即座に親友からやめてと遮断された。そんな風紀である。思いっきりリベラル、素で自由派万歳の世界である。勿論留保しておきたいが、僕は別に韓国の人を差別しようとしたのではないと思う。SANAAにいたションさんって米国留学してた韓国人と仲良くなって、最後に過去の事はゴメンネ、いつか韓国行きたいと思ってると自分からいったら、握手求められ、皆があなたみたいならいいんだけど、といわれ友情化した。ふざけて絡もうとすることすらダメ。名前を少しからからうみたく聞こえる風に言うのすらダメ。ノリでイジリも即座にいじめ扱いで0耐性である。民族問題でそんなのなんだから、女性差別が起こりよう筈もないではないか。実際、僕もそうだけれども絵しかみてない。絵がいいか。性別、国籍とかみてない。
あなたが主観的に体験した一例なんて、統計と全然違うじゃないかと。サンプル数わかってないでしょと、全体では違うんだよ、という。有体の反論、そのくらいの議論になるだろうと予想し、「じゃあリベラル社会なのになんでこの差ができるの」と背後の事情を某氏に推測させようと当然してたんである。
所が某氏は逆切れしてきて(美術評論以前の、ただの初歩的な社会学上の、統計分析の話なのでそこで切れても意味がない。論争のポイントなんてもっとずっとあとにあった事を展示拒否ネタ問題でのち多くの人々が実証してしまったのだが、それでもまだ、ガチ勢がバチバチやっている本来の美術評論自体の序の口にすら立ってないのだ)、彼は「もう通知が機能しないから言及してくれるな」とか意味不明なことを言ってわたくしをブロックしてしまわれた。僕は最初、返信してなかった。公的問題について言及する自由もないってことはない。
それで当時、自分はもう呆れてしまい、そもそも直接議論がなりたたないので、遥か迂回して国連に一応、「性差別批判の姿を借りた弱者男性アーティストへの差別」という観点から先回り文脈作りの公的通報したりもしたのだけれども(そうしないと、余りに雑な性差別・逆性差別がいきすぎ、国内でゴッホみたいに困窮する立場がますます追い詰められる一方になりそうだった)、国際的には性差論じゃなく彼が表現の自由の擁護者みたく着地していた。
問題は少々複雑だ。
彼の監督した展覧会、あいトリは、性差と性別をほぼ混同させつつ、参加作家の性別比を肯定行動(affirmative action)の観点から無理に1:1にするという基本コンセプトに加え、いわゆる表現の不自由展をくみこんだものだった。みてて、炎上しまくったのはどっちもなんだが。
もう残ってませんけど「美術業界人は全員死んだ方がいい」等と彼は書いてすぐ消したり(僕は現ツイートこの目でみたので言い回しは微妙だが記憶にある)、なんというのか、余りに雑な括りで国内の美術関係者全体を敵に回しかねない挑発的な言動で、展覧会前から性差別ネタで煽りまくっていたのである。それはネットではよくあることというか、いわゆる「煽り」というやつであろう。まぁ彼にも色々批評批判非難、或いはただの誹謗も段々わんさかきはじめていたのできれかけていたんだろうけども、あおりに煽りまくって炎上させた方が客入る、いつもの商法かなと思われる節もあって僕は遠巻きにみていた。
僕みたいに、美術に命懸けてやると15才の少年のころに決意し、そこからずんずん行ってるが完全に世間から無視されきって死にかけてるやつとか無数にいる業界である。一括りにしたこともない性別分類で「お前ら差別してんな! クソが」とか挑発されたら、それはなぁにこれってなる。皆それはないと。
貧乏な女は結婚し易いが、貧乏な男は結婚しづらい。というかほぼできない。この性別で大きく結果が異なってくる日本社会の生存条件を知らず、「お前が食えてねぇのは、ええと、女様を差別してやがるからだろが! 反省しろ! 変えろ」とか、統計円グラフ示しながら罵倒されたら、何いってんだとなる。
こうともいえよう、社会学力の不足があると。彼の統計をみる能力が低いだけじゃんと。それは最初から皆気づいていたと思う。だから指摘し合っていたのだと思う。違うよねって。僕もそうだろうなぁと思っていた。現状、現場の有様を知っているからである。でも俄か大阪人批評家とかも絶賛していた。
あの瞬間まで、某氏はガチでぶいぶいいわせていたのだ。ツイッター初期から僕もこれはいじっていたというかおよそロム専で使ってたんだけれども、そこで彼は最前線ジャーナリストですよって立場であった。裏返すと、多分、彼にとって最初の挫折の端緒だったと思う。あの僕をエゴサブロックした瞬間が。
この世には、絶対に勝てない対象が幾つかある。そのうちでも最たる物の一つが、真理である。真理に刃向かったところで全員が自刃に終わる。道理に刃向かうヤイバなし、だが、真理は名だたる道理たちの中でも最強レベルのやつ。
僕は私見言うつもりなく一度もいってなかった。客観的真理をいった。
こないだもぎけんがヴォイシーで「なるだけ早く失敗しろ」っていっていた。人生論として。これも一つの真理だと思う。序盤で相当失敗してもまだレースは長いから、途中でカバー余裕でできる。だが中盤からは段々、失敗のダメージがとりかえせなくなり、晩年だともう難しい。諦めてはならないにしても。
まさにあとの祭りだけれども、浅田彰まで狩りだされていたのは今となっては笑える話だ。権威づけのゲームで上塗りしたところで、真理の輝きが消えるわけではない。布で覆えばおおうほど、マザー2のオスカー賞の像もどきみたいな、怪しい光を放つ。それで半無限に炎上しつづけてきているのである。
ちなみに、じゃああなた個人の意見、こと私見は? ってことだが、本当の話、当時の議論とかブログに一応まだ残してあるのだが、僕は私見ってそこでも一度もいってない。公の、上に書いた客観的事実の分析に関する、統計学上の標本の質の議論しかしてない。僕個人の私見は、作品見てないしみる気もなくて言えないのだ。
美術批評は、根本的には作品の批評だろう。この世のなべてのものは作品ともいえるだろうが、特に美術作品として作者に公表された対象に限っていうと、それを実際みたりきいたり体験しないとなんともいえない。間接的に媒体などでみて評価もできるが、それは仮の意見でしかない。見たくない作品もある。僕は美術愛好家とか好事家とか超えて、自分の命をそこに預けて生きてきた。宮本武蔵が両刀に命を預けて道場破りしていたのか知らないが、僕は完全に、絵筆とか鉛筆とかシャーペンとか、キーボードとマウスとかで、描画体と支持体の関係にその全体重をのっけている。そこからいうとみるまでもないのだ。
僕に興味があるのは、いわゆる何でもありの現代アートなるもの、仮設美術モドキの部類ではない。僕がみなければならないのは、絵である。一体どんな試みでそのひとが人類未踏の絵画領域にふみこもうとしたかだけみている。ほぼ完全に前衛的興味しかない。そういう意味でいい絵がないのでみにいかない。
見るべき絵がないのに、見たいと思える絵がないのに、キテネってなにいってんだこいつ、と僕は思った。こいつはアートイベントをなんだと思ってんだと。まぁ僕がガチ勢中のガチ勢の絵描きだと知ってかしらずか相手はいったので、勿論わたくしも紳士として穏やかに対応したけれども、で絵は? って話。あのアクソノ崩しとか、タシスム風のアンフォルメルだけで、なんか感想いえってなんだ。ほかのアートフェス次元の試みで、大体が集客イベントなら別として、立派な技(fine art)の試みとしては典雅に成立していないのに、キテネ、って意味がわからなかった。相手が専門的に純粋美術のうちでも絵画に新提案をしてないか、そこまで気が回ってないらしいことは明らかだったので、僕は一種の僕への侮辱だなと感じた。いわなかったが。
こういう可能性も残っている。
美大芸大教授や美術館長に、博士後期以後の人、学芸員がなろうとする動機面、又は、その選考時になんらかの性別バイアスがかかっているかもしれなさ、蓋然性が0といえるかと。唯の食えない分野での「結婚までの腰掛け」論、花嫁修業論で、文学部と同じ観点から、美大芸大生の女寡占率をある程度語れるとしても、ガラスの天井が本当にないことにまでその論理が延長できるのかと。これが社会学的な議論として、あの場でなされて当然かと。僕は専門的な社会学者でないが。
教授、館長は、学芸員や美大生と違って、結婚生活と容易に両立できないので、高度キャリアを目指す女性が日本では「女子力」の同調圧力もあって、一般に少ない。その点はほかのどの業種でもほぼ同じだろうと。なぜ美術業界だけ、文学部と同じよう虚学さから学生時の女比率が多いのを種に攻撃対象かと。そこに恣意はないのかと。もし恣意的なら、公費の展覧会コンセプトとして問題があるのではないかと。美術業界への偏見を煽るだけに終わるし、そもそも「結婚までの腰掛け」「花嫁修業」的な女性寡占の学部や、「女子力」的な経歴構造が、単なる欧米フェミニズムの観点から否定一方で非難しえるのかと。音楽、美術、文学。これらはろくに食えない虚学であるが故に、経済力を担保に結婚市場で勝ちたがる男性らが特殊な例外を除き進んで択ばない傾向もある。一方で、花嫁修業的なブランドづけで、単なる結婚市場での平均評価という意味にかぎっては学部卒の肩書きで企業に入り込めばいいにすぎない一般日本女性からはほぼ無障壁で、虚学系に進路選好が生じるのではないかと。これらの可能性は排除できない。だから等価な目で各仮説にし、それぞれの蓋然性を社会学的考察の対象にするべきではないかと?
自分があの場で期待していたのは少なくともこの段階までの議論だった。これは本当の話だ。が全然そうはならなかった。それで僕は議論の質に物凄く失望もし、呆然とした。そういう低知性な人達がわが物顔で公的地位を得られるあの愛知社会、東京圏に、自分は軽蔑の念を覚えた。でもそうとあの場でいうのも憚られたので(彼らは真剣にやっていても無能なのである)1年たって今こうして書いている。