最近、ある金持ちが次の様に言ってるのを私はみた。
「スラムを見てはいけない、スラムの人達にかかわってはいけない。彼らが直る事はない」
これは私にとってかなり大きな発言で、新自由主義や自由人主義が行き着いた一つの極点だろうなと感じた。格差の下は見捨てて、救済無用というわけである。
もしこれが正しければ、いや道徳的にみて(アガペーや、ロールズの正義や、功利主義などからみて)必ずしも正しい事はないのだが、自由人主義者が跋扈している自由圏のうち、米日的な先進国が内部分解される原因になるのだろうと自分は思った。格差社会は分断社会。貧民窟とゲーテッドコミュニティ。
その金持ちは、新興国での悪人への対処の厳しさを見て、スラムに慈悲をみたいなのは甘いのだ、という感じの説を述べていた。リバタリアンなら大抵そういう意見だろう。私も彼の言っていることは分からなくもない。しかし彼の意見を公に聴いたことで、私は逆の危機感をもつことになった。
アリストテレスは賢明な中流が最多の体制でしか、多数政治が良いものでありえない、と『ニコマコス倫理学』『政治学』で述べていた。
しかし現代日本の有様は、特に小泉政権以後の自民党政権、特に安倍政権下で全く逆に向かってきた。一億総中流から格差社会へ。結果は衆愚政治、僭主の出現だった。
無教養な(サブカル漬けの)下流が多数派を占める多数政治では、政策決定も暗愚なものとなるしかない。その代表者が安倍晋三や麻生太郎なのも偶然ではない。
その上、自由人主義者らが租税回避に逃げ回って、ますます相対貧困を放置して済まそうとするなら結果はみるまでもない。亡国に至る。
それで自分はコロナ禍の中で、民衆や彼らの代表である政府の余りの愚かしさに呆れ、寧ろこういう国民は滅ぶことこそが世界史への貢献だと考え直していた。日本は世界の反面教師なのだと。
だがその金持ちの無慈悲な発言は、自分も彼と変わらない観点に立っているのではないかと気づかせた。
操正しい国民は、次の様に考える筈だ。格差社会は間違った政策結果で、新自由主義や自由人主義は総体として失敗していると。もしそれを続けても人類の殆どを滅びに至らせるだけで、超少数の大金持ちが果てなく虚栄に耽るだけの封建体制が再現されるだけだろうと。自分だけ得しようとしても無駄だと。
ジムロジャースは北欧を進歩的社会の模範ではないという。物質的面だけみればそうみえるだろう。現実には米日社会の負の面が、彼にはみえていないだけだろう。シンガポールでも中国でも、大勢の人達からカネを吸い上げなければ資産家として安穏と暮らせないことを彼もいづれ学ぶしかないからだ。
目の前に利益があって、自分がそれを独占でき、幸福といえるだろうあらゆる快楽に恵まれることが分かりきっていても、自分の背後にいる多数派の、それもたちの悪い祖国の人々を見捨てていいものだろうか、と自由人は考える必要に迫られる。自分はその熟慮を繰り返していた。成金か貴族、1つが択べる。
自分はまだその岐路で迷っているものの、というのは、祖国の悪しき人々が反省したり性の悪さを直したりすることはないと悟っていて、現に租税回避地で暮らす人々こそ世俗的幸福を得ていると知っているからだが、結局、貴族精神を一人でも維持していることこそが、現代人としての後世への義務だと思う。
多数派が堕落して、ネットで2ch的衆愚となり、犯罪三昧している。日本全体がスラムだ。だから脱出し、愚か者は見捨てよう。これは単純なアイデアだ。実際そうしても他国で似た事情が起きる。
貴族はこの逆に振る舞わねばならない。啓蒙的で、気高く、愚か者に抗い、自己犠牲を選び取らねばならない。
成金の国は、意外と簡単に作れる筈だ。税率を下げれば創れる。しかしそこが単純に理想郷になるわけではない。そこに集まっているのは利己的な目的の人々なので、金権政治の寡頭支配を敷く筈だからだ。
貴族の国はこの逆に、清貧を尊び、公益を私利に優越する少数の尊敬されるべき人々がいる。
民衆全体を賢くする事も、よい心に入れ替える事も決してできないだろうが、はじめは自分一人で、超少数にすぎないにしても、尊い振る舞いをする人が残っていれば、そこは貴族の国として再建していけるだろう。その一人は祖国の理想に向け滅私奉公し、自己犠牲をなんとも思わない必要があるだけだ。