2020年5月27日

格差社会と福祉社会

私はこの数ヶ月で、色々な事を学んでいた。
 その中でも自分にとって驚きだったのは、この世の中の人達の根性がわかったこと。彼らは自分が想像するよりはるかに不埒な目的で動く生物だった。道理で理解不能だったわけだ。というのも、彼らは自己利益を追求する利己的な生命体だったのだ。
 自分は、子供の頃から、この凡そ全く逆の向きに教育された。自分は道徳的な事柄に、かなり強い関心があった。それで倫理学の方は好き好んで学んだが、世人はこの方面を全く無視しているだけでなく、大いに小馬鹿にしていた。ネットでも現実でも、特に東京都心や関西地方で、不道徳さは礼賛されていた。
 正確には現時点で三大都市圏と呼ばれる東京、中京、関西の3箇所を主として、道徳性は全く人々の関心の外にあった。町人の末裔である商人達が商業地に集まって、過半は労働者として日銭を稼いでいる地帯なので当然といえなくもないが、彼らの関心は金儲けと快楽目的の消費が100%で、他ではなかった。
 自分はそういう文化圏を、完全に異質なものと感じた。それで部外者として観察していたのだが、コロナウィルス騒ぎがあった間、彼らの言動を緻密にみていたかぎり、彼らは儒学の概念を使えば純粋無雑な小人で、義には無関心、利のみに関心があって、とにかくカネや自分、経済の心配だけをしていた。
 自分はこれ以前、世間がそう動いていると知らなかった。人類は、日本国民は、もっと立派な目的があって動いていて、具体的に言えば功利主義の様な発想をもっており、自国や世界を豊かにするとか世のため人の為に働こうとしているのだろうと、全く勘違いしていたのである。教育が嘘を教えたともいえる。
 世人は憲法など頭の隅にも入っておらず、平気で法を破っていたし、警察に逮捕される前なら匿名で群れて、想定されるあらゆる犯罪をしていた。その果てに罪なき人を袋叩きで自殺させ蜘蛛の子のよう散らばった。彼らが普段から拝金主義の明かな商人にたかり礼賛を繰り返しているのもやっと合点がいった。
 これ以外にも死の商人に憧れるといっている商人とか知識人とかも、自分にはサイコパスにしかみえず謎だったのだが、彼らは頭の中に道徳性が欠片も入っていないのである。正確には陳腐な質のものしか入っておらず、凡そ全域が利己的な損得勘定で占められている。これが現代日本の世人の真実であった。
 全く同じ趣旨で、私は次の驚くべき現象を見た。
 奈良は天皇を発祥させ、古代から全国をバルバロイの如く蔑視し、虐殺部隊を送り込んで史書などで散々陥れていた日本版中華思想の起源の一つといえるが、この土地の人が「天皇ってなんか私らに関係ありましたっけ?」と私に尋ねたので、私は驚いた。
 京都市や東京圏に住んでいる人達が、田舎を頭ごなしに差別する事はその下ない悪習で、しかも彼らの土地に蔓延している。私がインターネット上で彼らがその種の野蛮な門地差別発言を群れながら野卑な口調でするのをみたり、私自身に向けられたのも一度や二度のことではない。無数にあった。
 それで自分は以前これも意味が全く分からなかった。違憲なばかりか人権侵害で、しかも生まれたり住んでいる土地が当人の個性と一体でないばかりか、実際私のよう都会で育った人とか都会で生まれ田舎に引っ越した人、移動しながら暮らす人など沢山いて事実に反するのだから、最初から無意味でしかない。
 が、コロナ禍の中できいたその奈良人の言動は自分に気づかせた。南関人も京都人も千年後おちぶれきって、もう自分がなぜ悪風に染まって中華思想を笠に着ていたのか忘れ、卑屈な態度に出る無様をさらすのだろうと。なぜなら彼らは利己的な損得勘定で、他人の立場を思いやる知能がないだけなのだ。
 知能の質が違う相手は、理解するのが難しい。そこには研究がいる。自分にとって世人の研究が一番難しい対象で、今後もそうであり続けるかもしれないが、コロナ禍の中で世人は町人の本性を晒し、人身売買(性売買罪)が楽しみだと抜かしておきながら少しも救貧を政府に訴えようともせず、商売していた。
 彼らの行動原理は千年後も、二千年後もそう大きくは変わるまい。千年前も二千年前もそうだったからこそ、今も昔も記録されている彼らの生態は一緒である。そしてそれを孔子は小人と、仏陀は愚かな者と形容した。
 利己的動機で生きている人達はそれが当たり前と信じているからこそ、労働信仰する。
 彼らは日銭を何とか得る方法は、最も単純な仕方である被雇用者としてできるだけ思考停止しながら命令されて働くことしかない、と思い込んでいて、その信仰をもつ同類に群れている。これが彼らがうだつの上がらない理由でもある。古代エジプトでピラミッドが作られた時もそういう人々が徴用されたろう。

 近い将来次の様な社会ができあがる。
 一者は知識階級で、資本家を兼ねている。一者は奴隷階級で、その日暮らしの労働者である。両者は決してわかりあえない。そもそも使用言語が違っていて、双方は意志疎通できない。
 資本主義は結局そういう二極化した社会を作り出す装置だった。
 別の国では、中流を維持し、階級の二分化を防止する。北欧圏がそれだ。この様な社会が、格差社会より長寿なのも確かだろう。格差社会の方はそもそも国の体を為さないし、そこでは利己的な人々が貪りあうだけで、嘗てのアテナイのよう衆愚が求めた無謀な戦争などで遠からず自滅してしまうだろう。
 日本人一般は、嘗て別の理念を掲げる一部の知識人に指導されていた。それは多かれ少なかれ道徳的なもので、長期的な視野に基づいていた。一億総中流とか八紘一宇とか富国強兵とかアジアは1なりとか。これらがどれも挫折してから、本来当時の知識人が新たな国民的理念を掲げなければいけない。
 現時点で民衆も政府も理念を一切失って、単なる拝金サルとか、米軍属国、最悪の場合いろいろな差別主義にしか目的がないのは、そういうプラトン的な政治哲学者が育たなくなったからである。国民一般の学術的な質が下がったのだ。
(では自分が代わりの役割を果たすべきか? 放置しているべきか?)