2020年5月15日

自然への感受性が死んだ都会人の素描

自然や田園あるいは工場など、コンクリートのビル、商店といった近代的な商業都市以外の要素を「何もない」とか、「無」と見なしていたり、実際に感じている人々の脳は、いわば世界の認知的多様性の一部または大部分を欠損させている。端的にいえば都会のみで生まれ育った人達は、自然に由来した感受性の殆どが死んでしまう。
 それだけでなく、彼らが中華思想的な虚栄心、都会人同士にありがちな顕示消費で馬乗りしあう俗物根性に心底染まりきっている場合(寧ろそうでない都会人を、いなかから出てきて彼らに同化したがる人々を含め私はみたことがない)、 彼らは意図的にその種の感受性を侮蔑しさえする。いなかを「田舎ダサい」といい差別的に扱っている人々、つまり都会かぶれの人々は、この意味で或る脳の認知障害をもっているといってもいいだろう。
 自然や、その人為との中間地帯に対する感受性は、我々人類の感受性の枢要な部分であるばかりか、我々の属する宇宙の殆ど全てについての認知である。したがって都会かぶれの人々は、本質的に世界認識を誤り続けた結果、或る重大な失敗を繰り返すであろう。原発等の公害を田園部の人類におしつけながら、都心でみられる退廃的生活に耽って自慢し続ける態度は、日本では中華皇帝を模し政府に寄生した殺人教祖たる天皇に明らかに由来しているが、彼らの破滅もまたその業の必然からくるのである。