2020年3月2日

多数派の公徳を啓蒙するのが国政維新の第一歩

全国一斉休校は無理があり、科学的に適切な証拠に基づかず、北海道知事の極端な施策をまねた憶測の迎合行政だったのが、少なくとも倉橋節也氏のAI模擬で論証された。
 学級閉鎖単体による効果は限られ、家庭で感染が広がる可能性もある。寧ろテレワークその他含む総合対策が劇的に有効なのが現見解。
 が世論の動き全体を見れるだけみていた感じ、休校をめぐる五十嵐つくば市長の「現実的な最適解」に肯定評価をしていた人達は、つくば市民の相当数をふくめ、どちらかといえば現実感や認識力がある人達だったと思う。
 逆に全か無か、極論しかとれない低IQ風の人達は、最善策を無根拠に否定していた。
 しかも、該当記事のヤフコメ民らの言動を全てみたのだが、多数派は後者(極論専一)の態度で「お上(官邸)へ妄従しろ」と、全体一律化を強要していた。
 彼らの理屈(でもないんだが。つくば市の特別対応への嫉妬含む感情的な弾圧か、精神論)では、足並み揃え全員が同じ行動とるのが義務だと。

 安倍官邸のいつもの無理な迎合パフォーマンスで、国民的混乱が広がっていたその頃(2020年3月1日頃)、ツイッター上で起きたのは、#安倍やめろ タグが世界トレンドに登場するほど連打されていたのに、ツイッタージャパンと日本青年会議所が組んだ因果か急に消され、#安倍やめるな タグがおしだされた。
 これもツイッターが、少なくとも日本支社では世論操作を明らかにしている証拠になったと思う。SNSがマスコミに次ぐ第5権力といわれて久しいが、まだ安全とはいえない。営利企業の都合で世論がねじ曲げられた現場を我々は、きのう体験した。
 他のSNSも疑わしいものだ。日本だけの話ではないだろう。

 で、今回自分がわかったのは、なぜ安倍官邸の方が一部首長より無能なのがはっきりしたかなら、多数政治、いわゆる民主主義のしくみに本質的欠陥があるせいだ。
 厳密には無理があるにせよ総じて一般知能を偏差値化すると、高知能な人達は数が少ない。かつ地域別に分かれ、綺麗な正規分布にならない。
 今回見ていた限り、全国首長で最も、つくば市長五十嵐氏が有能だったのは明らかの様に思う。あれだけ短期間の現実解として非の打ち所のない模範解答を出していたので、彼の一般知能が(飽くまで偏差値的にだが)極めて高いだろう事実は凡そ疑いがない。
 しかしつくば市だから、彼が当選したのだ。

(茨城県つくば市は世界的研究拠点で、2017年時の博士号保持者数は7995人、研究者数は20758人。2011年時の日本人博士号取得者7215人。国や企業の研究拠点が多数あり、約300に及ぶ研究機関・企業を擁する。市民の約31人に1人が博士で、外国からの研究者や留学生も多く、外国人登録者数は133カ国7565人。
資料 茨城県「茨城の豆知識」、https://pref.ibaraki.jp/bugai/koho/kenmin/news/mame/index.html
つくば市FactBook2011 https://web.archive.org/web/20120210205828/https://www.city.tsukuba.ibaraki.jp/dbps_data/_material_/localhost/kou010/factbook1.pdf
総務省統計局 http://stat.go.jp/data/e-census/2009/index.html
ニコニコ大百科 https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%81%B0%E5%B8%82

 つまりこの種の「一般知能の平均が他集団より高い集団」で多数決の場合に、単に偏差値的にだが、他にまさって有能な首長が択ばれうる、というのが今回わかったことである。
 もっと一般化すると、多数決では多数派の知的平均に応じた首長になる。
 これがなぜ安倍首相が連投するかの第一原因である。

 Gordon Hodsonらの"Bright Minds and Dark Attitudes"(2012)でいう一般知能の低さに相関した保守的傾向は、多数派の一般知能の程度に応じて生じる幻想、いわゆる共同幻想と考えられる。
 伝統は過去の風習で、継続する根拠がないので、それに寄託した集団意識は、多少あれ妄想の類にほかならない。
 すなわち、多数政治の根本限界は、その種の共同幻想にある。たとえ子供を抱える博士の五十嵐氏のよう一当事者にとっても最善策といえた最適解を導き出しても、多数派がもっと暗愚なら彼はそもそも首長の座に就けなかったのだし、もし就いていても引きずりおろされてしまう。逆により暗君が地位に就く。
 だから二極化がいきつくのは、衆愚政治だといっていい。
(アリストテレスの用語ならそれが民主政・デモクラティアなのだが。彼は多数派が公益より私利を優先する堕落した多数政体を指し、この民主主義・デモクラシーの語源となる言葉を使っていた。調度、公害な買占めに走る衆愚の姿がそれにあたる)
 裏返せば、国や地域集団の善政の質は、選挙など多数決に基づく多数政体なら、全員の公徳の平均付近に収まる。つまりこれが啓蒙や教育が必要な根拠になるだろう。
 教育面の護送船団方式(義務教育)は、学習進度別の個別指導には遥か劣るだろうが、この点で決して間違った考えではなかった事になる。

 これで「最高徳の首相」が択ばれていないばかりか、明らかに私を含む相当数の国民にとって最悪政治の暗君としかいえないダークトライアドが明治以後で最長期政権の独裁者になってしまう、そのわけは説明された。国民全体の平均公徳が彼程度だからである。
 よって、我々の喫緊課題は次の2つだ。

1.国民全体の平均公徳を急いで引き上げる必要がある(但し、多数政治を続ける場合)
2.専らつくば市のよう一般公徳の高い少数自治体で難を逃れつつ国政維新の機を伺う必要がある(但し、国内で過ごす場合)

 福沢諭吉『文明論之概略』によれば、公的な国政次元では難を先にすべきで1が優先だ。
 1のうち、多数政治なら多数派が堕落していれば首相の質が低くなってしまうが、少数・単独政治なら必ずしもそうでない。例えば自民党寡頭政治が極端になり、自民党以外の議員が事実上当選しなくなれば少数支配といえるが、このとき(現時点では逆だが)自民党員に貴族義務があれば多数派を無視できる。
 また、天皇支配(または将軍支配)が復活し、天皇家か、名目的にその次位にある将軍家(伝統的外交称号は日本国王)が、必ず統治の実権を全部又は一部もっている状態になれば、その単独者の公徳さえ高ければ十分な善政が執れる。
 つまり全体の公徳を引き上げるのが困難なら、このどちらかしかない。

 では現状でどうすべきか。
 例えば河野太郎議員とか麻生太郎議員とかには、特権意識の傲慢さがみられる。河野氏は米国では違憲判定が出たツイッターブロックで意に反する国民に公務情報をみれなくし、憲法で全体奉仕者と定める公務員職権違反をする。麻生氏も皇族閥として庶民への侮蔑的言動が多い。
 これらは今の自民党議員が、貴族義務を欠いている証でしかない。いわゆる上級国民として私利を公益に優先させ、飽くまで全国民に雇われ仕える公僕との意識がないわけだ。
 では天皇家や皇族はどうかだが、こちらも大いに私的な借金返済を血税から賄わせようとするなど似たり寄ったりで堕落している。
 要は自民党員にも皇族にも、高い公徳は期待できない。したがってとりうる選択肢は「全体の公徳を引き上げる」ことだけになる。これは数的なもので、ある人の公徳が極めて高かろうと、多数の人々が堕落していれば無意味。教育だけでなく、SNSやマスコミなど情報環境全体の質が底上げされるべきだ。

 この文を直接読む人は、内容だけに国民全体に比べれば知識人かその部類になるだろうが、公共に関する理解をもてる人が、様々に工夫しながら公徳全体の質をひきあげる大乗的な啓蒙を重ねるしかないだろう。
 サブカルはこの点で馬鹿にできない媒体だ。幼稚向きの形式なので、内容を整える必要がある。