『多数派の公徳を啓蒙するのが国政維新の第一歩』でそう書いたが、巨視的な理論では多分そうなんだろうけど、そして天皇絶対主義一党優位国民奴隷国みたいな特権階級なくし共和政にきりかえるしかないんだろうが、現実には啓蒙って無理な気がするし僕は苦手だ。
これは私的な脳哲学にも関わるが、自分の現時点までの認識では、他人の脳って基本的には変えられない様に感じる。
脳科学者茂木健一郎氏は「脳はどうとでも変わる」といっていたことがある。が少なくとも僕は性格が大幅に変わった人さえ経験上みたことがない。皆子供のまま大人になった様にみえる。
確かに事故って脳の一部が欠損したらそこに関連し性格が大きく変わったとかあるみたいだし、そもそも環境適応によって遺伝要素を除く性格に変化があるのも、心理学の知見を援用しなくとも当然ありうると思う。
自分がここでいう変わらなさは、これらと違う。経験的に、他人の知能は余り変わらない。
どう人の知能が変わらないかというと「基本的に」変わらない。だから例外や継時変化もあり、時には大幅に変わるだろう。IQも5~7割が遺伝とか科学者はいう(例えば安藤寿康『遺伝子の不都合な真実』)。
ほぼ似た環境で生まれ育っても、小学生時点で大きく知能は違っていた。性格も基礎学力も。
つまり、最も小さく見積もってIQの5割が遺伝とし、うつ遺伝子とかセロトニントランスポーター数などもっと性格や行動傾向に直接影響及ぼす要素の遺伝率もいれると、決して生まれを無視できないだろう。
この意味で、啓蒙の前提には、相手を生後変えうる範囲や能率に一定の限界があるといいたい。
より具体的にいうと、例えば僕は誰に教わったでもないのだが(というか勉強しなさいといわれたことが素で生まれて1度もない)、勝手に本を読みまくりはじめ、勉強が趣味になって毎日やりまくって面白くてしょうがなく今に至る。全知めざした志も関係あるかもしれないが、これも自然にそうなったのだ。
が。自分が接した人達の中には、本を一度も読んだことがないという人がいた。一応短大でているのだけど、多分小学校からエスカレーターの人。その人からすると、勉強というか学習が、自分と全く違う物として捉えられており、基本的にその人は知的障害ではないんだろうけど国語がまともに読めない。
しかしその人も、環境的に本がなかったとかでは全然ないのだから(その人の父の書斎みたが相当立派なのだった。僕がその家の子だったら物色して読みまくるだろうが)、単に自然にそうなったと捉えるべきだろう。
即ち、人は生まれつきなんらかの脳が、相当程度違うのだという風に私は感じている。
生後変えられる範囲といっても、例えばその2者、勉強大好き人間と、本を読むのすら大変苦痛な人間とがいて、このふたりのうち後者を啓蒙するったって、大抵どう転んでも後者が『カラマーゾフの兄弟』やジョイス文体を超えた前衛大長編文学に興味なんて持たないだろう事はおよそ、一生間違いない。
では啓蒙とは何か。
暗黒啓蒙とかいう中二ワードが一時期、加速主義に次いでネット意識高い系論壇(そんなのあるんですね、僕は覗いていたが。しかし私は陰湿なイケズはてな民とか大嫌いですからね)の一部に流行っていました。一言でいうと無意味な言葉なんだが、現代の啓蒙は無理って意味だろう。
その文脈に対する脱構築的文脈で、いやもっというと、ソーカル事件的なフランスなりドイツなど西洋大陸風の観念論哲学なエセ抽象の傾向からいって、啓蒙って実際問題、ある方向への教えなわけだけど、その方向が正しい保障なんてないわけだ。だから啓蒙なんて本当は洗脳と紙一重というか実質同じだ。
さらに踏み込むと、科学主義者らにとってほぼ信仰になっている(遡ればオーギュスト・コント流儀の)実証科学さえ仮説の信憑性についての議論にすぎず曖昧なものなので、科学教育も本来は洗脳でしかない。科学教育全体が洗脳の体系なので、宗教である。だから科学教という批判がなりたち啓蒙も不可と。
勿論科学主義者、科学信者(いわゆる科学者や、今の自然・社会の両科学中心の教育体制でいう学生)にとって、その洗脳を逃れて思考するのは著しく困難だからそれが彼らの脳性能の限界といってもいいんだが、僕もだけど最初からそんなのインチキじゃんと気づいている側は制度を無視して勉強している。
つまり啓蒙とは、科学を根拠主義(同一・矛盾・排中律など論理学を基礎とする広義の論証主義に入るといってもいいだろう)だの、実証主義だのに基づいて他人にしつけることでは全然ありえないわけだ。潮流論だけの話ではなく、そもそもが科学的信憑性がどこまでも疑わしいのだから、永遠に真理でない。
ではそれらの全科学(全知識)を含む、哲学の領域はどうかなら、もっと曖昧模糊としており、言語の無差別格闘技が無限に続くだけで俗物馬乗りゲームやってるだけの雑魚が博士と名乗って思想史語って威張っている。だからたちが悪いとはいえるのだが、道徳家いないと世の中なりたたないので本物もいる。
要は全学術の総合名義といってもよい哲学領域までくると、最早啓蒙なんて主義の分類にすぎず、いわゆる啓蒙主義という部分。まあ今風に簡単にいえば理系かじった意識高い系中世フランス人みたいなレベルの張り切り集合だ。説明のため若干矮小化してはいるが、人権広めた人達の敬称でもある。
その啓蒙が今日役立つかといえば、全然無理なわけだ。だから暗黒啓蒙とかいう魔法の言葉が一瞬流行った。原英文ブログ全部読んだけど決してうまい概念説明のしかたはされてない。ここの僕のがうまいだろう。
「啓蒙は科学主義みたいなもんでおしつけじゃん? なら、何を啓蒙するっていうの?」
こういうわけで、冒頭の清談のよう公徳の質を上げようといっても、それが特定論者による恣意的方向への誘導なら、所詮、科学レベルの宗教でしかない。どんな道徳も相対化できようし(相対主義)、その基礎となる科学さえ教えられないなら一体、公徳の高さをどう定義するかが真実、問題になるだろう。
まだ定義が揺れているので将来的に適切な用語法ではないかもしれないが、斯くして暗黒啓蒙的な状況があるので、そこで公徳全体をどの向きに導こうが、単なる思想権力者の政治にすぎないのかもしれない。
だが客観的には、松陰侵略主義が天心平和主義より劣る、といった厳然とした公徳の格差がある。(吉田松陰の侵略主義と、岡倉天心(覚三)の平和主義の略)
自分がここでいいたいのは、特にこの公徳の質なるものが短期でも長期でも正義の規矩になるので、常に最大多数の最高幸福と合致するよう功利的に考えなおすべきということだ。もし快楽計算の一律性に反論を想定し功利主義概念を使わず説けば、より普遍的な利他性の高い道徳が、そうでないものより尊い。
すなわち科学をどれだけ引用するかに関わらず、公徳とはより利他性の高い考え方になる。
上述のようその定義は根拠や実証など科学的手法で説得力をもたせられるかもしれないが、効果としては現実的な宗教の一種で、究極で十分できない。だから今日の啓蒙は飽くまで対機的に善の蘊奥を説くしかない。
では本質的な(対機説法の様に方便的ではない)啓蒙がありうるか?
善の理解には当時の知識や学術的手法の範囲でしか漸近できないので、現世的な限界があるにしても、抽象的には一定である。つまり利他性一般または絶対的な利他性だ。哲学用語なら当為。哲学者にとっても、本質の理解は程度なのだ。