2020年3月5日

イエスやガウタマにとって悪とみなされる不倫含め、諸々の愛や博愛は解脱後の慈悲の前段階で、未だ悟りきっていない下位のアガペー概念

旧キリスト教圏の人達は「愛、love」をほぼ無条件の肯定文脈で使うことが頻繁にあるが、仏教では本来その種の愛は悪徳の一つに他ならない。開祖ガウタマは
ガウタマ「愛する者とも愛しない者とも会うな」『ダンマパダ』210
と述べ、煩悩の炎を吹き消し、独りで瞑想していることを至上の幸としていた。
 一方、ガウタマは『ダンマパダ』129-132でいわゆる慈悲について語る。
ガウタマ「全ての者は暴力におびえ、全ての者は死におびえる」同書129
「もしも暴力によって生き物を害しないならば、その人は自分の幸せを求めているが、死後には幸せが得られる」同書132
アガペーたる博愛と仏教の慈悲は一部重なる。

 イエスが『新約聖書』で説いた神の愛は、個々の煩悩、性愛を含んでいる、但し不倫(既婚者への愛)を除く、博愛というべきだろう。
イエス「誰でも情欲を抱いて女(他人の妻)を見る者は、既に心の中で姦淫を犯したのです」マタイ5-28
「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう」マタイ5-46
「きょうあっても、あす炉に投げこまれる野の花さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたによくしてくださらないわけがありましょうか」マタイ6-30
ガウタマも不倫(既婚者への婚外からの愛)に厳しい。両者とも他人の妻への性愛の戒めという形になっているが、恐らく聞き取った者が男性たちだったからで、同趣旨で女性から既婚男性への愛も戒められているのだろう。
ガウタマ「放逸で他人の妻になれ近づく者は、4つの事柄に遭遇する。――すなわち、わざわいを招き、臥して楽しからず、第三に非難を受け、第四に地獄に堕ちる」『ダンマパダ』309
イエスとガウタマの共通認識は「不倫」(既婚者への婚外からの愛)を悪とみなしている点、そしてアガペーを語る点だ。

 違うのは、イエスにとって性愛は不倫を除き容認されるものだったが、ガウタマにとって忌避されるべきものだった点だ。
 なぜこの差が生まれたかだが、イエスは『旧約聖書』の神による命令を前提にしているからだろう。
神「(生き物へ)子を生んで多くなり、もろもろの海に満ちよ」創世記1-22
「(人へ)子生んで多くなり、地に満ちて、それ(生き物たち)を従わせよ」創世記1-28
ガウタマは旧約の神を考慮していない。それだけでなく後世が解脱と呼ぶ、子供を生まないままで自然死するのを修行の目的としている。
ガウタマ「生存の彼岸に達した人はあらゆる事柄について心が解脱していて、もはや生まれと老いとを受けることがないであろう」『ウダーナヴァルガ』29章57

 つまり、このイエスの考えとガウタマの考えをまとめると、イエスはガウタマにいわせれば性愛、煩悩に執着するところがあって解脱できていない。アガペーについて理解はしているから単なる凡夫ではないにしても、迷いの生存の中にある衆生の一種ということになる。
 より哲学的にいうと、仏教の哲理の方がキリスト教のそれより、弁証法(対話術)的な関係ではより上位にあるといってもいいだろう。イエスの容認する性愛はガウタマの言い方でいえば愛執にすぎず、悪徳にすぎないからだ。
 もっといえば性愛は所詮、当人にとって価値あるものあるいは自分を愛するものへの偏愛にすぎないし、そもそもイエス流儀の博愛が人を基本対象としているので、全生物へのアガペーであるガウタマ的な慈悲より下位または部分的な慈しみに過ぎない。

 より大きくみると、キリスト教圏の倫理的な常識は、少なくとも仏教のそれより一段劣っているというしかないだろう。もしキリスト教哲学が狭義の愛である性愛を、ガウタマによる煩悩への戒めを怠って肯定したとしても、仏教哲学でいう苦(dukkha)を逃れられない。倫理学的に仏教が上位にあるといえる。
 すなわち、旧キリスト教圏、具体的にはロシア含む欧米やその旧植民地、あるいはアフリカ圏などは、仏教倫理を常識として持っていないので、愛執している苦にまみれた迷いの衆生といっていい。
 現代日本はキリスト教も仏教も等しく参照できる文化圏なので、より上位にある倫理に従うべきだろう。
 通俗的大衆歌などで「愛」は、キリスト教的な性愛観のもとで謳われる傾向にある。最近の流行歌でもOfficial髭男dismの『Pretender』の歌詞などがそれだが、常に変わらないといってもいいくらいその種の愛がJPOPの代表的主題の一つである。
藤原聡「愛を伝えられたらいいな」「いたって純な心で叶った恋を抱きしめて好きだとか無責任に言えたらいいな」『Pretender』
つまり、この種の日本人大衆も、ガウタマを見返すと、欧米人らと同じく迷いの中にある衆生というほかない。
 我々は解脱を規範とし直せば、少なくとも倫理学的に、その種の愛執からくる諸々の苦を免れ得るだろう。