2020年3月2日

この世で害他行動を減らすには悪人を社会障害者などと定義し、社会の側が彼らからの被害を防ぐ合理的対策を工夫し続けるしかない

『今日の啓蒙は普遍的利他性たる善の理解度を深めつつ広めること』の続きだが、生まれつき愚かな人、特に道徳的認知力が弱い人にいくら善を説いても限界があると自分は思う。
 これについて真剣に自分が悟ったのは、複数のサイコパスを身近に観察する機会があったせいだ。
 サイコパス度が高い人は、普通に良心を認知できない。ちょうど彼らの盲点の様になっているらしい。それである人は善悪が無にみえているらしく、損得しか認知できないらしかった。その人は、小説、物語とか劇中でもそういう見方しかできてないはずだから、定型発達と感知する人間性の有様が違うわけだ。
 つまり、共同体の平均公徳は、かなりの程度、成員の生まれにもよっている。生まれつき道徳認知の潜在能力が高い遺伝がもしあれば(孔子が「生まれながらこれを知る者が上なり」というよう、あるだろう)、倫理学識について若くして悟る。
 だから後天的啓蒙は無いよりましだが民度の全てではない。

 自分のみるかぎり、東京圏ではサイコパスが高い地位を占めていることもかなりある。というか目立つ。それは彼らの文化が大勢において拝金主義、学閥差別、又は俗物根性などを含んでいて、カネ儲けや箔づけの下駄や人気とりが先立ち、人格的良識などは極めて後回しにされているせいである。
 しかし、そういう東京圏の平均民度が高いかといえば、犯罪率・数などからも当然だが、少なくとも東日本で一番低いといってもいいだろう。ダニクル効果で都民らが中華思想に驕り高ぶっているのもその一傍証にほかならない。
 一方で、善を他の要素より重視する文化は、実は目的の文化である。

 善、良さ、もしくは道徳性は、人が他の人を目的にする人格主義を一典型として、人間界で最も公益度の高い性格特性だといっていい。そしてその種の相互に利他的な集団が、唯一この世で生きるに値する仲間といってよい。
 人は結婚相手の素朴な選択でも一般により良い性格を性選択するのが事実である。
 結局、おもに性選択を通じてしか生まれは変えられないのだが、結婚生活を代表例として、長期的人づきあいを想定すると否応なく性格の良い相手が択ばれがちになる。
 それに加え、ミーム競争の面でも最低限度規範たる法秩序を超え、善い趣味と悪趣味がある。善趣味は審美判断一般の良識性を意味する。
 人は、芸術(広義で言語活動を含む人工物全て)を通じ、良識を高める方へ誘導される。キッチュやキャンプ、グロテスクなど美学的な例外はあるにしても、悪趣味は醜悪ともいうよう、一般に審美的に劣るものだからだ。
 こうして目的の文化とは善を最重視するそれだ。この世に望める上限がそこにある。

 ここでいいたいのは、生まれながら良心の認知力が多少あれ欠如しているサイコパスがいる様、愚かさの一種たる悪徳をもつ悪人は、本質的に目的の文化にとって反面教師または社会的障害に過ぎないのではないかとの考えだ。
 その種の生得障害はしばしば矯正困難ゆえ、終身刑が正当化されるのだろう。
 だがもし悪事(害他行動)の一部が生得障害であれば、今日の刑法は彼らの人権を程あれ抑圧しているといってもいい。特に死刑は生得障害を無視し、生まれてきただけで結果的に殺される家畜的状態に一部の刑務者を置いている。将来的に生得・後天的社会障害に応じた矯正計画が終身刑に代わるべきだろう。

 そして社会一般の民度という意味でも、害他性は一種の社会障害なのだから、生まれか育ちかそのいづれもかによる或る人の公害(迷惑さ)は、なんらかの防止措置が必要である。愚か者は説教を聞かないし理解もできない。つまり啓蒙で十分防止できなければ、悪人へは合法的な制裁が必要なのである。
 今日の日本文化全般では、その種の社会障害者への防止もしくは制裁が「道徳警察」(いわば和)による公然たる言論リンチなど実に野卑な形で行われている。本来かれら社会障害者が善意か悪意かその濃度に関わらず、適応に障害をもっているのは明らかなので、あるべきなのは科学的で温和な解決である。
 例えばネットの常態的荒らしは、全体の5.6%ほどと割合は少ないが(Erin E.Buckelsらの"Trolls just want to have fun"(2.2.2.))、サイコパス度が高く、サディズム傾向など複数の性格特性が障害になっている(Naomi Crakerらの"The dark side of Facebook®")。彼らを黙殺できるしくみが対策になる。

 究極のところ、目的の文化を啓蒙を超え発展させるには、こうして科学など複数の知見を用い、社会障害者と呼ぶべき悪徳をもった(又は生まれつき或る良識をもちがたい)人々への理解度を深めつつ、その障害を被害を受けると想定される側が取り除く工夫を、粘り強くつくりあげていくしかないのだろう。