2020年3月21日

啓発は他人に向けて行うべきではない

人には共通の行動様式がある。
 卑しい人にはそれ固有の行動・思考様式がある。そしてそれらに似ているほどその人は卑しい振る舞いをし易い、またはほぼ確実にする。
 同類相憐れむ、類は友を呼ぶのはこの様式によっている。だから卑しい人達の群れにいたり、その言行を学ぶとは様式の模倣である。
 望ましくない言行様式をもつ人々は、群れながらその様式が共通という認識をもっていない。望ましい様式が何かをしらないのでその共通集団に属しているからだ。
 我々が或る人を反面教師にするのは、その種の様式の劣悪さが明らかな時である。だが悪例当人は特有の盲点の為そのことに気づけない。

資本主義は人々を少しも善良にしないだろう。そこにあるのは需給を速やかに満たす行動系列が利益を寡占する構造だけで、どんな道徳性も経由しない。究極の人工知能の方が明らかに全人類よりうまくカネを儲けられる。
 だが道徳を無視するこの資本主義は、寧ろ卑しい人々を少しも救いはしないだろう。
 物質的充足は、どこまで行っても交換価値のやりとりに留まるが、そもそも道徳性を経由しなければこの交換に質の高い幸福は乗り得ない。だからむしろ商品経済や拝金主義のはびこっていない社会での方が、明らかに人々は質の高い幸福を得ている。資本主義者やその種の労働者の傲慢が幸福を堕落させる。
 我々が或る商人の虚栄なり、消費・浪費生活をみて羨望なり呆れを感じるのは、かれらがその種の傲慢以外なにも掲示していないからだ。顕示的消費の本質にあるのも、単なる高い質の幸福の否定である。
 賢者はその種の商人達ではありえないだろう。分け与える事で充足するのが本来の幸といえるからだ。
 卑しい人達の行動を観察すれば、逆の事がわかる。かれらは寡占や独占、浪費を地位や幸の目安と考えている。これは俗物根性というべきだが、結局、かれらの惨めさは交換様式の根底に道徳性を介在させていない点にあるのだ。

 むしろ、次の様なこともいえる。
 卑しい人達が直感的にそうと感じられるのは、かれらの道徳性の低さをなんらかの仕方で人が感じ取るからだ。逆にそこから、ある言行様式を帰納的に収集できるかもしれない。例えばダークテトラドなのだがそれを隠している労働者に典型的な言行といった部類のものだ。
 卑しい人達の卑しさの核心にあるものを抽出できれば、それは悪徳と呼べるだろう。そしてその反対側にある理想が、人々にとって模範的になるだろう。
 我々は卑しい人達を単にそれとして見て、かれらに共通の認知の枠組みを推し量るのは難しい。外形に表れた言行系列から推測し、型をとりだすべきだ。

 卑しい人達はなぜ卑しいのか?
 彼らは結局、ある言行様式の内部に型をもっていて、それが共通なのである。そしてその型は悪徳と呼べるものだが、それをもたない人にとっては理解し難い対象である。大体が、暗愚さのため無数の誤解や悪解釈を繰り返して生まれる結晶がそれだ。
 少なくとも私は程度あれ卑しい人達しかまずみたことがないので、およそ全人類の全員がその種の帰納法の対象である。尊い人についても同じ帰納ができるのかもしれないが、先ず希なので現世での人間観察では悪徳を抽出する結果になる。これは現世の人間をみることが馬鹿馬鹿しいという意味だが。
 下賤な人達に固有の考え方を知る必要があるのかだが、かれらとやりとりできない方が好都合な場合が殆ど全てなので(害を避ける為には進んで縁を切るべきだ)、結局、現世の人間観察には総じて悪徳抽出の効率を高める以外の目的がない。そして悪例がふえるほど、人間の行動原理を予想できる様になる。

 尤もそれができたところで、乃ち世知に長けたところで、人の悲惨でみるも穢れる結果がますます先に予想がつくだけの事だ。人文学の究極目的が道徳的啓蒙にあるとして、もしそれが程度問題でしかないとすれば、全人類を改良できるとの考え方は唯の全体主義の変奏、誇大妄想でしかない筈だ。
 だから人文学は次の様な用途であるべきなのだろう。先ず人類全般からの自分への害悪を防ぐこと。害獣からの自己防衛、これは判断力があれば誰でもそうする。次に部分的に啓蒙をはかること。これも聖者なら誰でもやった。最後に、人類の総勢に期待しないこと。これが一番難しい。
 人権思想は実効性はあったが、一種の誇大妄想を延長させたものだった。だから大抵の人類が理想からかけ離れた言行をする現場をみると、我々は人を卑しんでしまう。だがどちらかなら啓蒙家が過剰に期待していただけだ。殺人教祖を崇める衆愚の国にあって、寧ろ人々に期待をかける余地などないだろう。
 この世では下卑た人々と縁をきれればそれで十分なのであり、アガペーという過度の救世主願望による自己洗脳を解きさえすれば、少なくとも人類一般の根っからの愚かさ、邪悪さに失望も絶望もしない筈である。
 進んで広く交際を求めるな。この世で一番害がある行動だ。凡そ悪徳は他人が感染源だから。
 愚か者を賢くしようとしても全くの無駄である。並より賢い人すらそれ以上賢くするのは難しいのだから、最初から啓蒙されようがない愚か者の相手をするのも同程度に愚かな人だといって間違いない。つまり人は悪徳を避ければそれで十分であり、他人の愚劣さを改善する必要もなければ義務も意義もない。
 生育の途中で性善的になった人は、啓発の為につい時間をとられがちだが、これも愚かさの一種だと考えていい。なぜなら所詮、散種は自らの良心を満たす為なのだ。
 自分にとっての賢さをさらに高める様に時を費やすべきで、他人の賢さについては全くそうではない。