2020年1月10日

今日の徳政論

人治から法治へ、との法政の進化論が西洋主義法政とすると、東洋では徳治と法治は昔から対立概念として維持されてきた。徳治の代表が儒家、法治の代表が法家。
 もう少し詳しい概略は、西洋の人治は中世の封建制(feudalism)秩序を意味し、法治は「君臨すれども統治せず」の議会主義を意味している。

 比べて、東洋の徳治は孔孟両子を代表者として、政治道徳による理想的人治をはかるべきとの考えだった。また大雑把にいえば、これを愚民相手に無力とみなし現実的には実定法で人民を厳罰しなければいけないと韓非子らが主張していた。彼らはいずれも華夷秩序下で君主国がどう振舞うべきかを説いていた。
 つまり、現代日本で「法治」が少なくとも政治系学界で前提になっているのは、この2つの文脈の上で、特に西洋主義法政に偏った脱亜入欧イデオロギーがあるからだ。そこでは徳治の概念は、西洋中世のフューダリズム流儀と同一視され、無視されているくらいだ。

 しかし奇妙な二重基準をもっている人もいる。例えば立憲党首の枝野幸男氏とか、脳科学者の茂木健一郎氏などがそれで、彼らはイギリスに残存する中世の名残である不文憲法を肯定的に評する。これはただの出羽の守や英国崇拝を全く無視してみれば、無法の人治もよしとする矛盾した肯定を意味している。
 彼らの基本的な法政解釈は西洋主義なので法治論の筈が、なぜか最高法規については人治を正当化する。例えば上皇は憲法に規定されていないし嘗ての一世一元の制とも矛盾しているから、安倍政権の通した退位法は違憲と考えられるが、ここで彼らは反対を表明しない。だからといって徳治に基づくでもない。

 徳治をわかりやすくいえば、慶喜が水戸学尊王論に基づいて、戊辰戦争で薩長軍・西軍を潰そうとせず、天皇の軍にみずから退却するばかりか兵を引いて、己の江戸城まで禅譲した様な、政治道徳的な行動を指している。この場合、日本流儀だが、いわゆる革命が起きるのは元首より高徳の君主が出現した時だ。
 水戸学では尊皇(尊王)が是で、本来の天皇を飽くまで擁護して殉死した楠木正成が英雄化される。したがって日本を二分する戦で徳川が濡れ衣され、一命を失うとしても、政治道徳に基づけば飽くまで、天皇を守護するのが正義とされる(「君君足らずといえども臣臣足らざるべからず」と易姓革命を否定。『古文孝経』序から引用し義公『常山文集』巻十五の序に使われた)。
 だが中国哲学ではこれは全く違う。何しろそれを換骨奪胎し日本流儀につくりかえた徳川光圀が未出現なので、文化大革命みたいに旧政府を打倒すれば、政治道徳は正当化される。
 同じく、薩長土肥と呼ばれる西日本諸県での政治的流儀もこの点で、中国哲学の立場に近い。それで明治維新を革命と考える。

 対して儒家が堯舜や伯夷叔斉にみられる禅譲を理想としていたのは、徳治は暴政に優越しなければならない、と考えたからだ。儒家はこの意味で、史実として大政奉還級の禅譲が起きた試しがない歴代中国政府への批判者なのである。また水戸学者と同じく、薩長土肥の暴政流儀も否定する。徳治の革命は平和裏に進行する筈だからだ。
 本来、戊辰戦争は必要なかった。だから徳川慶喜は松平容保へ理由を告げずに連れたまま、江戸城へ帰宅し、その後も天皇への恭順を命じてみずからも郷里にあたる水戸へ帰郷したのである。(父斉昭に諭された通り)尊王の徳治に基づけば、明治天皇を擁した天皇軍に弓を引くのは全くありえない判断なので。
 しかし、西日本の薩長土肥らは、水戸学も徳治も十分理解していなかった。彼らは暴政を行えば政権簒奪できると、中国哲学の易姓革命流儀で考えた。そして徳川慶喜・松平容保らが江戸城へ退却したのは、単に暴力で勝てないからだと考えた。その筋で彼らは郷土教育しているので慶喜へ濡れ衣着せたままだ。
 だが慶喜は武家の統領であって、その後に水戸の武士らがどう戦ったか(諸生党)をみれば明らかなよう「大義の勇」で戦陣に散るのは生き残るより名誉との教えが当時の武士道であった。天皇軍と戦うのは匹夫の勇どころか大罪というのが水戸の教えだった以上、戦力差など究極全く関係ない話である。
 いや戦力差の面でも、当時の徳川方は兵力の絶対数もあれば、武器の面でもフランスから受けた支援で近代兵器をもっていた。近代軍艦も石川島で父・斉昭らが製造し、最初から保有していた。勝利の可能性も十分すぎるほどある。それで英仏両公使は薩長と戦を勧めていたわけだ。
 が徳治は暴政を戒める。

 少なくとも戊辰戦争に関東の諸国も加わって、江戸と京坂の間で第二の関が原の戦を現出させていたら、大規模内乱は国力を深刻に殺いでいく。疲弊後に周りをとりかこむ欧米列強が大砲うちこめばすぐ植民地化できる。
 薩長土肥は、未だに水戸学的な徳治を理解していない。それで東日本などへ侵略してやったり、(こちらは天皇への慶喜の禅譲を勘違いしているのだが)簒奪をしてやったりと驕るのだ。薩長土肥ら西軍による会津への侵略を防衛しようとした東北・北陸諸国は、全く正義感からそうしたものだが、実際、なぜあの様な暴挙を嘗て鹿児島・山口・高知・佐賀の人達がしたかなら、政治道徳より暴力を優先させていたから、としか説明しようがない。今も同じだ。彼らは戊辰戦争を反省していない。
 単に戊辰侵略を反省していないだけではない。彼らは、のち原爆投下された広島や長崎があるのに、今も松陰イデオロギーのもと明治以後の侵略主義を誇ってすらいる。それで李氏朝鮮を潰して近代化してやったのにとか、全くお門違いの傲慢な態度がでてくる。史実として植民地化されなかったどの国も近代化しているのに。

 西日本と東日本は、大きく見るだけでもこれほど政治思想に違いがある。東国は徳治の理念を独自に進化させているが、西国は「勝てば官軍」で侵略含む暴政を恥じない。政治イデオロギーが正反対といってもいい。
 しかも中国哲学は西国のそれとも地味に違う。儒家は暴政を必ずしも正当化しないからだ。
 西日本の多くの人達は郷土史で地元人を英雄化する目的で、慶喜の禅譲を「政権簒奪の成功」と解釈してしまい、戊辰侵略を含め、明治維新を政治的に正当化して今に至る。つまりマキャベリズム(権術主義)まがいを信じている(後述するが、マキャベリ自身は統一の為の権術は勧めたが、決して権力乱用といえる悪政や暴政を正当化していない)。
 中国哲学でこれは儒家でも法家でもない。最も近いなら兵法を説いた孫子だろう。
 また原爆投下2つがあって雑賀忠義が「過ちは繰返しませぬから」と広島の碑文に彫ったが、ここでいう過ちとは、西日本の多くの人達にとっては戦や暴政自体への罪悪視では毛頭ない。単に権術で敗れた後悔と解釈されている。これで彼らが戊辰以後の侵略を正当化し続けているわけが理解できるだろう。

 安倍晋三氏は山口4区の約10万人が支持して国政にいすわっているが、彼の思想もまた権術主義に彩られているのは衆知の通り。その起源はやはり明治の正当化にある。彼は水戸学派の奥ゆかしい禅譲意識など埒外にあり、暴政を憎む儒家とも、法治を現実的政策とみる法家とも違い、権力をもてば勝手と考える。
 その上、西洋で君主らの国益を損なう不当な独裁政治からイギリス議会が主導権をとりかえし、人権思想をうけたアメリカ独立戦争やフランス革命を経て、欧米ではっきりした形をとった罪刑法定主義に基づく西洋流法治とも、安倍氏の権術政治は色彩が全く異なっている。それで平気な顔で法を軽視するのだ。

 日本国政には上述の文脈、まとめると

1.(始皇帝以来の暴政を批判した)徳治vs法治の中国哲学
2.天皇を権威化した水戸学派の徳政意識vs権術第一の薩長土肥による暴政意識
3.欧米で不当な人治から合理的な法治への近代化意識

の3要素が流れ込んでいる。
 安倍氏は権術暴政の山口(長州)人だ。

 日本の主要な大学教授は、近代化を習わせる旧帝大をおもとして、3.法治近代化で欧米追従が基本流儀なので、1.中国哲学の徳治・法治や、2.水戸学の徳政・薩長土肥の暴政といった伝統的漢学・国学を無視しているに等しい。それで安倍政権の閣僚が独特な法政意識を垂れ流しても欧米追従に終始する。
 森まさこ議員は、どうでもいい話だけど僕の近隣のいわきの植田出身らしくて、高校も磐女らしく自分的にはどんな感じで学校通ってたか想像つく範囲なのだけれども、NY留学したらしく要は「欧米追従流儀」の典型的な3.近代化の法政意識なのに、日本の司法の遅れには無反省と独特の二重基準がみられる。
 留置所の代用監獄問題(いわゆる自白強要の人質司法)とか、都内マスコミぐるみでの容疑者呼称による推定有罪さらし者ルールとか、一事不再理なしとか、刑務所自体の質も北欧圏なんかより低いだろうし、死刑も(現に森さんも)執行してるし、大体、薩摩弁のオイコラ警官みたく官尊民卑もひどいわけだ。
 しかし、森さんのエッセイ『ママさん子連れ留学の思わぬ効果』読むと、こどものころ父が破産宣告したかで日本の司法に一度は救われたので、彼女は一弁護士として日本の既存の司法制度を自己批判し改善するより、保守的に擁護する考え方をどうしてももっていると推測される。多分それで自民議員になったのだろう。

 結局、今おもてにあらわれているゴーン氏逃亡後の諸現象は、安倍氏の「権術暴政」と同じ起源にたどり着く。国政無謬とは力でねじ伏せればなにやってもいいとの、山口県の歴史解釈的な通念に還元されるわけだ。
 しかしこの流儀は、英米中みたいな過去の覇権国と一部通じる為サイコパスはやりやすい。
 困るのは一般の良心を持つ9割以上の人達のほうで(例えばサイコパス度の高い荒らしはネットユーザーの5.6%とされる。Erin E. Buckelsら"Trolls just want to have fun"の2.2.2.)、近代法政もより被疑者の人権尊重するほうへ改良されず、それ以前に日本人一般は町人流お上意識で、法教育の推定無罪を周知されてさえいない。

 まず、根本的に、徳治と法治は両輪の様なものだ。法を悪用すれば公益やら正義を損なうし、法の運用以前に道徳なければ罰されなければ悪さを平気でする様な低民度な社会になってしまう。
 また徳政と暴政なら徳政のほうが優れているのは当たり前なので薩長流儀は全くの野蛮、ただの堕落というべきだ。
 マキャベリは中世イタリアの分裂時代に、統一を達成するに権術が必要とは説いたが、勝てば官軍で最高権力握れば何してもいいなど暴政を考えたのではない。この点で晩年に無政府主義者だった松陰(安政6年4月野村宛書簡)を神格化し、独裁志向が極端に達している長州閥と全く違う考え方というしかない。
 三権(立法司法行政)にせよ公徳による正義の観念がなければどうとでも悪用できてしまう。それでアリストテレスが、王(君主)政の堕落で独裁(僭主)政、貴族政の堕落で寡頭政(薩長藩閥や自民党両院支配みたいなの)、共和(国)政の堕落で衆愚(民主)政を挙げていた。暴政とはこれらを指すのだ。
 公的正義の通念とは「公益を私利に優先させる」ことであり、これを公徳と呼ぶ。
 単独支配者が徳政すれば王政、暴政に陥れば独裁政。
 少数支配者が徳政すれば貴族政、暴政に陥れば寡頭政。
 多数支配者が徳政すれば共和政、暴政に陥れば衆愚政。
 これらが徳政と暴政の基本的違いといっていい。
 すなわち徳政とは、「公益を私利に優先させる」公徳に基づいた政治である。逆に暴政とは、「私利を公益に優先させる」不公徳に基づいた政治である。かつ、権力をもった人が単独者、少数者、多数者でこれらを大別できる。

公徳 徳政 暴政
単独 王  独裁
少数 貴族 寡頭
多数 共和 衆愚

 また近代化の人権尊重は、ゴーン氏が訴えて国際社会にいよいよばれたし(今まで東京旧媒体は必死になって記者クラブで外人だのIT系外様だの排除して、散々隠してましたがね)、日本なり首都のそれが完全に世界の反面教師なのはだれの目にも明らかなのだから、森法務大臣も、さっさと改善はかるべきだ。

 更に根源的に、超法規的に天皇尊重すべしみたいないわゆる水戸学尊王論が今日の公徳に値するかなど、これは純粋に政治哲学の話題になるので、深くは別の機会に譲るが、私個人はこの考え方を採用しない。
 震災での棄民体験経て、国家事象を批判検証した結果、象徴天皇を脱構築し共和政に返るべきだ。
 天皇が中国大陸から7000~1375年前の間にくる前の方が12万年も平和だったのが歴史の事実であり、そうであれば、徳政はより公徳の高い政治形態を選ぶべきであって、身分差のない共和政となる。所詮、天皇は中華皇帝のまねごとである。西洋に媚売って封建制を延長したいったって道理にも情理にも反する。